スノーボードアルペン竹内智香、新境地で迎える北京2022

冬季オリンピック5度出場、ソチ2014のスノーボード・女子パラレル大回転で銀メダルを獲得した竹内智香が、2年半の休養を経て、新たな「喜び」を胸に舞台に戻ってきた。スノーボードと歩む “第2の競技人生” で迎えた北京2022。2月8日の彼女の挑戦に注目しよう。

1 執筆者 Risa Bellino
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(2018 Getty Images)

中学生の時に長野1998オリンピックを見て、その大きな舞台とスノーボードに魅了され、**竹内智香**の世界一を目指すオリンピックジャーニーがはじまった。

今や世界において冬季大会の顔となっているスノーボードも、公式競技としてオリンピックに追加された第1回目の長野大会での実施は2種目のみで、日本人メダリストは生まれなかった。アルペンと呼ばれるスノーボードパラレル大回転では、男子出場なし、女子は竹内と同郷の**上島しのぶ**ひとりのみの出場で、15位に終わっている。

日本がまだトップアスリートを輩出できていない世界への扉を開き、自らがその可能性を証明してきた竹内が言う “競技者としてはものすごく遠回りの人生”。

彼女自身が語ってきたこれまでの言葉で、6度目となる**北京2022**までのオリンピックへの道のりを振り返ってみよう。

(2014 Getty Images)

「願うこと、一生懸命頑張ること」

“日本人はこの種目で世界に通用しない” と周りからの言葉を受けながらも、「どうしても18歳でオリンピックに出たい」という大きな夢を描いた14歳は、有言実行を果たしソルトレークシティ2002でその夢を叶え、今度は選手として、その大きな舞台とスノーボードの世界に魅了された。

翌年には、初となる日本選手権2冠達成、2004年にワールドカップ初の表彰台、2005年は自己ベストとなる2位の実績をあげた竹内は、日本代表トップ選手としてトリノ2006に挑み、日本勢初となるTOP10入り、9位となる。

「できる事は全てやってきて、ベストな状態でスタートに立った」と言う2度目のオリンピックは、一生懸命頑張るだけでは超えられないメダルへの壁が彼女の前に大きく立ちふさがった。

(2006 Getty Images)

2005年10月から今日にいたるまで、17年にわたり自身のブログに想いを綴ってきた彼女は、挑戦してきた5回のオリンピックを通じて経験した様々な想いの変化や、アスリートとしての成長について語っている。

「悔しくて悔しくて、2日間くらい一人になるとずっと泣いていました」「4年前のソルトレークより何倍も悔しいです」

トリノ2006を終えた彼女を次の4年間に向けて動かした原動力は、この気持ちだった。

ただ、この悔しさは、勝ち負けというメダルの目標に敗れたからだけでなく、オリンピックに出場することで叶えられると思っていた目標が、9位では達成できなかったと感じたからだと彼女は綴っている。

「日本中にアルペンスノーボードという種目を広める」こと、「結果を残すだけではなく競技の楽しさ、スポーツの楽しさ、目標に向かって頑張る事の素晴らしさ、、、そんな一つ一つの魅力をスノーボードという競技を通じて伝えられたら」という願い、また、大会に出場するごとに大きくなる竹内を支えてくれる人たちのサポートへの恩返しをするという、目標だ。

オリンピックの力、その舞台にあこがれて人生の半分以上を日本女子スノーボードアルペンのトップで牽引してきた竹内は、競技人生の節々で、この目標と、オリンピックの大舞台へ挑戦できることの感謝の気持ちを口にしている。

(2014 Getty Images)

オリンピック2大会目の挑戦の後は、「自分の考えを実行し失敗する事が怖く、自分より経験が豊富な人達の考えをそのまま行うというタイプの選手」だったこれまでの自分を変えるために、自分で模索して導き出した新たな道を歩く決断をした。

2006-2007シーズンで5年間所属した小嶋アカデミーを卒業し、2007年から強豪国スイスに単身で渡航。コミュニケーションをとるために一からドイツ語を習得し、スイスチームメンバーとして活動を始めた竹内は、2009年に4大会でワールドカップ2位、総合ランキング3位という自己ベストの状態でプレシーズンを終え、バンクーバー2010に挑んだ。

(2010 Getty Images)

日本とスイスでの経験で、「全ての出来ごとには意味があるということ、常に前を向いて過ごすことによって一つ一つ階段を登って行けるということ」を学んだという4年間。環境を変えて挑んだ自身3度目のオリンピックは、13位に終わった。

「きっと何かを証明したい気持ちが一番強くて勝ちたい気持ちがその次だったかもしれない。。。」スノーボーダーとしての経験を積み上げてきた中で、新たな文化に触れ、他国選手の夢への目指し方を目の当たりにしたことで、自身のアイデンティティと、スノーボードを通じて残したかった自分の想いについて向き合い、考えるきっかけとなったオリンピックとなった。

5年間ともに活動してきた名門スイスチームから離れることを決め、ソチ2014に集中できる環境を求めて2012年4月に拠点を日本に戻した竹内は、同年12月の29歳の誕生日に、125回目の出場となるワールドカップで初優勝を果たす。

ずっと目標としていたワールドカップでの1勝。その後も3度2位を獲得し、好調を維持しながらオリンピックシーズンを仕上げた。

「どんな結果も受け入れられる覚悟があった」

完璧な準備をして迎えた4回目のオリンピックは、銀メダル。念願の表彰台に立った竹内は、達成感にあふれえる笑顔がはじけた。

メダリスト会見では「やっぱり金メダルが欲しかった」と率直な気持ちを語るも、日本人初のスノーボード銀メダルを獲得したことで、スノーボードアルペンを多くの人に知ってもらうことができ、たくさんの人に喜んでもらうという長年の目標の達成には、“メダル以上の喜び” があったと、自身のブログで綴っている。

(2014 Getty Images)

「五輪があるからどんなことも頑張れる」

ソチ2014の後に引退の道も考えた中で、もう一度オリンピックを目指すと決め、ソチ大会で逃した金メダルへのリベンジとして、平昌2018で「追試テストを受ける」と表現した竹内は、5度目の歩みを進めた。

原因不明の体調不良や選手生命を脅かす2016年の大怪我、かみ合わないパフォーマンスに苦悩の日々が続く、厳しい道のり。絶不調の中、なんとか自分を奮い立たせて向き合った平昌2018での5位は、「4年間の苦しさを一瞬にして全てを楽しさに変えてくれる」オリンピックとなった。

「待ちに待った追試テストは点数がつけられないほどに歩んで来た競技人生がどれだけ幸せなのかを再認識させてくれた最高のテストでした」

(2018 Getty Images)

平昌2018後、スノーボード界の開拓者である竹内の今後の進退について話題が飛び交う中、彼女は自分の心の声を聴く時間を作った。

ずっと挑戦してみたかったというスキューバダイビングやヨガ資格の取得など、心の向くままにいろいろなことを楽しみ、豊かな時間を過ごす様子がいきいきとブログに更新されていた2年間。その後ようやく、北京プレシーズン前となる2020年8月に、「生涯現役」というタイトルと共に、竹内が心の声を文字に起こした。

「2022北京五輪へ向けて始動します」

「2年半、競技から離れています。残り1年半で目標とする世界までどんなふうに駆け上がって行くことができるのか今からとても楽しみです。起きる出来事は全てが必然だと思うから自分が選んだこの道を信じて一度しかない人生を最高のモノにしたいと思います」

6度のオリンピック=少なくとも24年を超える年月をトップアスリートとして競技に向き合ってきた中で、2年半が短いのか長いのかは誰にもわからない。ただ、原点回帰して、“雪山がたのしい” “もう一度オリンピックを目指したい” と感じた竹内の心は、導く先を全て知っている気がする。

北京2022のスノーボードアルペン競技は、2月8日(火)、クオリフィケーションランから、1回戦、準々決勝、準決勝、3位決定戦、決勝まですべてが1日で実施される。(スケジュールはこちら

『竹内智香×オリンピック』という生き方。新境地で迎える彼女の北京2022を見届けよう!

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