涙が止まらなかった。それも、一度ならず二度までも。
しかし、その理由はそれぞれ違う。
2021年のクリスマスの日、**北京2022代表選考の大一番となる全日本フィギュアスケート選手権大会の女子シングル決勝フリースケーティングで、樋口新葉**は自身の持ち味であるダイナミックな演技を披露し、その手応えを感じていた。
でもやはり、点数が発表されるまでは不安だった。4年前の悪夢が過ぎってしまう。平昌2018の最終選考では実力通りの結果が残せず、代表候補から落選した時、悔し涙が止まらなかった。
「自分に勝つ」
トリプルアクセルを引っ提げて、彼女はもう一度、冬季オリンピック最終選考会へ、4年分の悔しさを晴らしに戻ってきた。そして、大会の目標として「自分に勝つ」と掲げた。
樋口はふたたび、涙を止めることができなかった。なぜなら、パーソナルベストを更新できた嬉しさのあまり。安堵もあったのかもしれない。でも、確かなことは、彼女は自分に勝ったということだ。
樋口はいよいよ、北京で夢の舞台に立つ。
小さな頃から憧れだったというオリンピックの銀盤へ、苦い挫折を経験しても諦めずに這い上がる、百獣の王のように逞しくも美しい、彼女の勇姿を追いかけた。
期待のジュニア時代
東京都出身の樋口は、母親の勧めで3歳からスケートを始めた。友だちとお喋りしながら楽しく滑っているうちに、どんどん夢中になって、2回転ジャンプをマスターするようになると、フィギュアスケートの国内試合へ出場するようになっていく。
樋口が注目されるようになったのは、まだ中学2年生だった2014年の冬のことだ。ジュニア選手権で優勝し、招待選手として全日本への初出場を果たすと、いきなり3位表彰台に上がる。その翌年の2015年にはジュニア選手権を連覇し、さらに全日本ではひとつ順位を上げて銀メダルを獲得するなど、平昌2018の代表候補として大きく取り上げられるようになる。樋口がまだ、中学3年生の14歳のことだった。
高校進学と同時にシニアデビューを果たし、平昌2018のプレシーズン(2016/2017)では、ISUグランプリ(GP)シリーズへ初参戦する。ファイナル大会の出場はならなかったものの、デビューとなったフランス杯では3位銅メダルを獲得。つづくNHK杯では4位入賞と、国際舞台での実績と知名度を着実に上げていく。そして、年末恒例の全日本選手権でも前年につづき銀メダルに輝くなど、樋口は平昌オリンピックで活躍が見込まれる若手選手として、その期待を一身に集めていた。
同級生対決
そんな将来を嘱望されていた樋口は、2017年3月、シーズン締めくくりとなる世界選手権に初出場する。翌年に控えた平昌2018出場枠のかかった世界選手権は、高校1年生の樋口にとって、相当な緊張と重圧に襲われた。ショートプログラム(SP)で9位と出遅れてしまい、決勝のフリースケーティング(FS)でもミスが目立って、総合11位に沈む。順位が大きく影響する基準であったため、最終的に平昌2018女子の出場枠は「2」となり、最大枠数(3)を逃してしまうことになった。
こうして迎えた、平昌オリンピックシーズン(2017/2018)。
シニア2年目の樋口は、昨季に続いてGPシリーズに参戦し、中国杯で2位、ロシア杯で3位と連続して表彰台に上り、総合成績で上位6名だけが招待されるGPファイナル大会の出場権を初めて獲得するなど、国内選考レースでその存在感を強くアピールしていた。
このファイナル大会には、怪我により1年休養していた日本のエース、宮原知子も出場を決め、ともに表彰台を目指していたものの、樋口はSPで5位、FSでも精細を欠いて、6人中6位の成績で終わってしまう。宮原も総合5位という成績でメダルを逃したのだが、長期休養から復帰して間もない中で、ファイナル大会へ出場したという復活の兆しを見せつけており、樋口とは対照的に評価されていた。そして、この頃、注目されていたのが、ファイナル大会の出場は逃したものの、上り調子で勢いをつけていた樋口と同級生の坂本花織だった。こうして、平昌行きのたった2枚のチケット争いは熾烈を極め、その行方は全日本選手権に持ち込まれることとなった。
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2017年12月、平昌2018最終選考会となる、全日本フィギュアスケート選手権がはじまった。
樋口はSPで、ダブルアクセルが1回転になるというミスが響いてしまい、4位発進となる。暫定1位の坂本との点差は、およそ4.5。十分に逆転が狙える位置だった。しかし、決勝前日の公式練習で、樋口は右足首を怪我してしまう。痛み止めを服用しながら決死の覚悟でFSに臨んだものの、3回転ジャンプが2回転になってしまい、総合成績も順位を上げることができずに4位のままで、表彰台を逃してしまった。その一方で、宮原はSP2位からの逆転優勝を果たし、また坂本は総合2位となって、全日本の表彰台に初めて立っていた。
「オリンピックに行けるか行けないか分らないけれど、祈りたい」
直後のインタビューで、樋口は率直な不安と希望を吐露した。しかし、その祈りは届かなかった。
目を赤く腫らして、樋口は何も語ることなく会場を後にした。16歳には、あまりにも酷な出来事だった。
氷の上にも四年
平昌2018代表発表の翌日、自身のツイッターで、樋口は以下のように綴った。
彼女の目にはもう、4年後の北京2022が映っていた。
平昌2018閉幕から1ヶ月後の2018年3月、樋口は2度目となる世界選手権に出場。FSで圧巻の演技を披露して、銀メダルに輝く。
「今後の4年でしっかり、今回の結果を奇跡的と言われないようにもっと自信をつけられる練習、結果を残していきたい」
こうして、倍返しに向けた猛特訓の日々が始まる。
COVID−19による大会中止などが相次ぎ、氷上でのトレーニングができない期間があったけれども、樋口は3回転ジャンプの中で唯一完成できていなかったトリプルアクセルの習得に腐心していた。
そして、迎えた北京2022のオリンピックシーズン(2021/2022)。
GPシリーズ第2戦となるカナダ杯で、樋口はトリプルアクセルを公式戦で初めて成功させる。つづくフランス杯でも、回転不足の評価だったがトリプルアクセルを着氷させ、「緊張したなかでも大きなジャンプが跳べて自信になりました」と、オリンピック選考に向けて、その確かな成長を窺わせた。
そして、あの悔し涙から4年の月日が経った全日本選手権。
樋口は、SPでは全てのジャンプを着氷し、74.66のスコアを叩き出して、暫定2位につける。そして、オリンピック出場の運命を決める決勝FS。最終出番から2番目に出場した樋口は、大きなプレッシャーと緊張感の中、トリプルアクセルを冒頭で披露し、着氷に乱れるも転倒は回避する。その後は、安定した連続3回転ジャンプなどをクリーンに決め、アイスリンク全体を使ったダイナミックな演技とスピードのあるスケーティングで観客を魅了する。
演技終了直後、思わず「やったー !」と叫んで、両手でガッツポーズを見せた。スタンディングオベーションで拍手の鳴り止まない観客席へ、涙を溜めながら、何度も頭を下げた。そして、リンクサイドへ上がり、見守ってくれていたコーチに迎えられると、我慢していた涙を堪えることはできなかった。
そして、キスアンドクライで、スコアの発表を待つ。やりきった、だけど、不安だった。涙も止まらない。4年前の悪夢を打ち消すように、「お願い、お願い、お願い」と手を合わせる。BGMがフェードアウトして、会場が一気に静まり返る。
スコアボードに映し出された数字を見るやいなや、また大粒の涙が零れてきた。
「自分に勝つ」
この4年間、何度も挫けそうになっていた自分に、勝つことができた瞬間だった。
樋口は、パーソナルベストとなる147.12を記録し、合計得点221.78で、総合2位となった。こうして、樋口は4年越しで、冬季オリンピック日本代表の座を射止めたのだった。
「私は4年前もオリンピック出場を目指していたんですけど、その時は出場をすることができなくて、すごく悔しい気持ちでこの4年間過ごしてきて、本当に今年出場が決まって本当にほっとしているのと嬉しい気持ちでいっぱいです。オリンピックでも本当に自分らしい落ち着いた演技ができたらいいなと思います」
- 樋口新葉
ライオン、寅年、"新葉"
樋口が、北京2022シーズンのFSに選んだ楽曲は「ライオン・キング」だ。
「これまでのスケート人生にかけてきた想いが伝わるように、表情や気持ちを意識しています(所属先HPより)」と本人が話す通り、壮大かつドラマ性の高い音楽に合わせて、冒頭のトリプルアクセルから終盤の躍動感に溢れるステップやスピンまで、彼女の魅力が存分に詰め込まれた構成に仕上がっている。
2022年の干支は、"寅"。この冬のオリンピックを開催する中国では、ライオンではなく、トラが百獣の王として崇められているそうだ。
そういえば、樋口のファーストネーム「新葉(わかば)」を、音読みも混ぜて読むと「シンバ」。ライオン・キングの主人公と同じ名前だ。
百獣の王をモチーフにした音楽に合わせて、寅年の中国の首都で、"新葉" が踊る。
このステージは、なんだかもう、彼女のために在るような気がしてならない。4年分の想いをぶっつけて、華麗に暴れてほしい。
彼女なら、きっとできる。流した涙の分の倍返し。
いや、足りない。1000倍返しの笑顔を見せてくれるはず。
「目標としていたオリンピック代表に選んでいただき、いよいよ大会が始まります。なかなか実感が湧かな い日々が続きましたが、小さい頃からの夢の大舞台で悔いの残らない演技をするためにたくさん練習を積み 重ねてきました。大会を開催するにあたり協力して下さる全ての皆さまに感謝し、応援してくださる皆さまに感動を届けられるように精いっぱい頑張ります 」
- 樋口新葉(北京2022に向けたコメント・日本オリンピック委員会より)
北京2022フィギュアスケート女子シングル・フリースケーティングは、2月17日19:00(北京時間18:00)よりはじまる。
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