上野由岐子、東京五輪ソフトボール開幕日に38歳の誕生日を迎える日本のエース
日本が世界に誇る大エース・上野由岐子。これまでオリンピックで金と銅、世界選手権で2つの金と銀を獲得している。北京五輪では、準決勝アメリカ戦、3位決定戦オーストラリア戦と同じ日に行われた2試合に先発。ともに延長戦となり合計318球で完投すると、翌日のアメリカとの決勝も先発して完投勝利を収め、2日間で413球を投げ、日本ソフトボール界にとって悲願の金メダルを獲得した。
直近の参加大会、結果
日本代表デビューは高校卒業した2001年。以降、数多くの国際試合にエースとして登板した。五輪、世界選手権の結果は下記の通り。
- 2002年 カナダ世界選手権(カナダ):銀メダル(4勝1敗)※中国戦で完全試合
- 2004年 アテネ五輪:銅メダル(3勝2敗)※中国戦で完全試合
- 2006年 世界選手権(中国):銀メダル(5勝1敗)
- 2008年 北京五輪:金メダル(5勝1敗)
- 2012年 世界選手権(カナダ):金メダル(6勝1敗)
- 2014年 世界選手権(オランダ):金メダル(5勝0敗)※中国戦でノーヒットノーラン
- 2018年 世界選手権(日本):銀メダル(6勝1敗)
プロフィール:早くから才能を開花させ、日本のエースに君臨
1982年7月22日生まれ。福岡県福岡市出身。身長174cm、右投右打。現在はビックカメラ女子ソフトボール高崎に所属する。子供のころから抜群の運動神経を持ち、小学校3年でソフトボールを始めると、ピッチャーとして別格の活躍を見せ、小学校で県大会優勝、柏原中学校で全国制覇を果たす。高校でジュニア世界選手権に出場すると、速球を武器にエースとして日本に優勝をもたらすなど、早くもシニアのオリンピック候補としても期待を集めた。
しかし、腰に大ケガを負い、シドニー五輪出場はかなわなかった。高校卒業後、宇津木妙子が監督を務める日立高崎ソフトボール部(現ビックカメラ女子ソフトボール高崎)に入部。そのまま日本代表入りを果たすと、翌年の世界選手権で中国相手に完全試合を達成し、この試合で日本のアテネ五輪出場を確定させる。
初五輪であるアテネでは、万全のコンディションで臨めず、開幕のオーストラリア戦で逆転負けを喫した。日本代表自体も銅メダルに終わり、悔いの残る大会となったが、翌年、所属チームの監督に就任していた宇津木麗華と渡米。新たな変化球を取り入れて磨き、投球の幅を広げたことでさらにバージョンアップを果たした。
2008年の北京五輪では413球を投げ切り、初の金メダルを獲得した。その後、五輪種目からソフトボールが除外されるも、復活に望みをかけつつ現役続行。2012年、2014年の世界選手権で連覇。現在は、東京五輪で12年ぶりの五輪連覇を目指している。
エピソード:普段はマウンド上とは間逆な“BIG BABY”と呼ばれるいじられキャラ
小学校のころは、マラソン選手を目指して、父親と毎朝ジョギングをしていたという上野。中学生のころにソフトボールが五輪正式種目となり、ソフトボールで五輪に出ることが目標に定まった。
そんな中学時代には、上野が投げると同世代の女子選手はまったく歯が立たないため、あまりにもワンサイドな試合となり、モチベーションが下がった時期があった。その時の顧問の先生が、上野をショートにコンバートし、「ピッチャーだけでない野手の守備の楽しさや、打者の奥深い魅力をあえて体験させてくれた」のだという。
上野はその恩師に感謝し、実業団に入部した際には、「いつか引退したら、中学校の教師になってソフトボール部の顧問になり、勝たせるというより、ソフトボールをずっと続けられるように、楽しさを教えたい」と将来について語っていた。
高校時代、実は上野に大きな危機が訪れている。体育の授業中に、走り高跳びの着地に失敗して腰椎を骨折。ソフトボールの選手生命すら危ぶまれた大ケガだった。だが、看護師である母親の協力もあり、奇跡的な回復を遂げ、高校3年生の国体に登板。優勝投手として高校生活を終えた。
高校時代から世界ジュニアで活躍し、鳴り物入りで実業団へ。日本代表にも選ばれたが、その実績や凛々しさとは裏腹に、アテネ五輪がかかった中国戦を完全試合で終えた直後に「え?五輪がかかっていたんですか?」と発言するなど、どこかとぼけた一面などから「BIG BABY」と呼ばれ、マウンドを降りれば、場を和ませるいじられキャラであった。
また、身を呈して正義のために戦う姿に、自身を重ねていたのか、アンパンマンが好きで、部屋にはファンから贈られたアンパンマングッズなどが多く飾られているときもあった。
経歴・プレーの特徴:世界最高レベルの球速と多彩な変化球で打者を翻弄
国内では、2001年にソフトボールの日本リーグにデビュー。その年の投手部門の新人賞を獲得。優勝チームの選手に贈られる、最高殊勲選手賞を、2002年から8回受賞。最多勝利投手賞を、2003年から8回受賞。2018年まで、リーグ通算勝利数は207勝(歴代1位)、完全試合は日本リーグで2018年までに8試合。日本リーグ以外でも、全日本総合選手権、国体でも輝かしい実績を残している。
また、国際試合でも世界ジュニア選手権では、上野が投げるボールがあまりに速かったため「オリエンタル・エクスプレス」と呼ばれ恐れられた。社会人になってからはさらにスピードが上がり、2009年には121キロを記録。ソフトボールは投補間が短いため、この急速を野球に換算すると160キロ以上の体感スピードがあると言われている。
加えて、世界最速のスピードを持ちながら、同じフォームでチェンジアップ(低速ボール)を投げて打者を翻弄する。2005年からはアメリカで多彩な変化球を学び、球種を増やしたことで、2008年の北京五輪の金メダルを実現させた。
以前は速球を中心に、三振をとって完封することを使命としているようなところもあったが、変化球を多く身につけてからは、打たせてとるピッチング、翻弄するピッチングへと進化した。
北京五輪の4年後。ソフトボールが除外されたロンドン五輪の直前に行われた世界選手権で、上野は42年ぶりに日本に金メダルをもたらした。決勝戦は奇しくも7月22日。上野の30歳の誕生日だった。また、2020年の東京五輪のソフトボール開幕戦となる7月22日は、上野の38歳の誕生日である。
ライバルと信頼している人:打者だけでなく、投げ合う投手にもライバル心を燃やす
速球主体のころは、ホームランバッターに出合い頭を打たれることもあり、アメリカの大砲ブストス、オーストラリアのスラッガー、ポーター、ティッカムなどに一発を浴びることも。また、アメリカ不動の3番打者、頭脳派メンドーサとの対決も名勝負が多かった。
上野はバッターだけではなく、ピッチャーにライバル心を燃やす。同じ試合で投げ合うエースが好投すると、自分もいい投球でやり返す。そういう意味では、東京五輪で投げると予想されている、アメリカの長身エース、モニカ・アボットとキャサリン・オスターマンにも、負けたくない気持ちは強いはずだ。
ライバルという意味では、同学年の他競技の同期の活躍にも刺激を受けた。レスリングの吉田沙保里、競泳の北島康介などがいる。
全幅の信頼を寄せるのは、宇津木麗華・代表監督だ。同じ実業団の先輩、監督として、日本代表を背負ってきた孤高のレジェンドの一人として、どんなときも上野を支え、ともに歩んできた。
アテネ五輪後に上野の投球の幅を広げるため、アメリカ修業に同行したり、2008年後にソフトボールが五輪から除外され、自身の今後のキャリアに悩む上野に、さまざまな機会を提供。燃え尽きそうになった上野を、一番近いところから見守り、鼓舞した。上野もインタビューで「宇津木麗華監督がいなければ、今の自分はない」と述べている。
12年ぶりの五輪に向けて:ベテランならでは経験とメンタルで連覇を目指す
東京五輪で最大のライバルチームは、もちろんアメリカ。次にオーストラリア。カナダ。この3か国に対しては、近年の五輪・世界選手権でほとんど上野が登板している。また、中国戦では一度も負けたことがなく、相性がよい。
東京では北京五輪のように2日で400球以上を投げて、アメリカやオーストラリア打線を一人で抑えることは、「今の自分には厳しい」と上野自身が自覚している。北京後に新たに身につけた技術と知識を生かして、ベテランならではの経験値やメンタルの強さで、“新しい上野由岐子”として戦う。
五輪という目標がなくなり、もがき続ける中で見つけたもの。このままでは終われないと、師・宇津木麗華と共に、日本のソフトボール界のために何をすべきかを考え続けてきた10数年。東京五輪でも、日本中を感動させるようなピッチングを期待されてしまうだろう。
そんな重圧と高揚感の中でこそ、上野の凄みのある、真の強さは引き出される。日本が金メダルを勝ち取った瞬間、上野はどんな表情を見せるのだろうか。