国際ルールの変更、新旧交代の端境期。新エース上野由岐子誕生も不完全燃焼の銅メダル 【2004年アテネオリンピック】

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アテネ五輪では上野由岐子が始めてのオリンピック出場を果たした

シドニー五輪後、国際ルールの変更に世代交代の時期が重なり、日本は国際大会で苦戦を強いられる。上野由岐子という新エースが台頭し、前回大会の銀メダル以上の結果を期待された日本だったが、上野のアクシデントなどもあり、結果は銅メダル。不完全燃焼なまま大会を終えることになった。

シドニー五輪で、日本は決勝でアメリカにサヨナラ負けを喫しての銀メダル。以来「今度こそ、金メダルを!」が、ソフトボール日本代表の必達目標となった。使命を背負い、再び指揮を執ることになったのは宇津木妙子。シドニー五輪の代表選手たちの多くが、引き続き強化選手として残ることにもなった。しかし、アメリカらを追い詰めた日本には、国際ルール変更という困難が待ち受けていた。

投手と捕手の間の距離が1メートル延びたこと。外野フェンスが6メートルほど遠くなったこと。公式球が日本では未使用の、縫い目の高い黄色いボール(従来の白ボールより飛びにくいと言われた)に変更になったこと。これらの変更は、外国勢とは体格差があり、筋力に劣る日本にはかなり不利な条件になる。実際、変化球主体の日本の投手たちは投補間の延長に苦しんだ。

ところが、そんなときに救世主ともいうべき、高校卒ピッチャーが日本代表入りを果たす。のちに世界最速のボールを投げるまでに成長する上野由岐子だ。上野は18歳の夏、カナダカップの決勝でオーストラリアを1安打完投して優勝投手となり、大会MVPに選ばれる。翌年、上野は世界選手権で日本のエースとして大活躍。2年後のアテネ五輪出場がかかった、決勝トーナメントの中国戦を、完全試合で勝ち切って世界中に名を轟かせた。

『宇津木JAPAN』は「打倒アメリカ」を掲げて2002年の世界選手権に臨んだが、結果は予選も決勝もアメリカに惜敗して2位に終わり、大会5連覇を許した。あと1点がどうしても取れず、守り切れなかった。それから2年、チームは「女イチロー」と呼ばれる、上野のひとつ年下の山田恵里の加入などもあり、新旧交代を進めていった。結果的に、その端境期でアテネ五輪を迎えることになったことが、今ひとつ乗り切れない要因となった。

アテネでは不運にも泣かされた。エース上野が直前に発熱で寝込み、大会中には手を蜂に刺されるというアクシデントに見舞われたのだ。予選は苦しみながらも日本は4勝3敗で3位通過。予選4位の中国を下して3位決定戦に進んだもののオーストラリアに敗れ、そのまま3位で3度目の五輪を終えた。

金メダルしか期待されていなかったソフトボール日本代表は、銅メダルこそ死守したものの、見るたびにやるせない気持ちでいっぱいになると皆、メダルをカバンの奥底にしまいこみ、しばらくは直視できなかったという。大会はアメリカの3連覇で幕を閉じた。

【アテネ五輪結果】

予選リーグ

● 2-4 オーストラリア

○ 6-0 台湾

● 0-3 アメリカ

● 0-1 カナダ

○ 6-0 ギリシャ

○ 1-0 イタリア

○ 2-0 中国

4位決定戦

○ 1-0 中国

3位決定戦

● 0-3 オーストラリア

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