山田恵里、「女イチロー」と呼ばれる日本ソフトボール史上最高の打者

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エース・上野由岐子とともに北京五輪のプレッシャーに勝ち抜いた山田恵里

国内の打撃記録をほとんど塗り替えた、日本ソフトボール史に残るバッターといえば、山田恵里だ。高校卒業と同時に実業団に進み、その年のシーズンオフの日本代表合宿から、本格的に日本代表入り。以降、数多くの国際試合に日本代表の走攻守の要として出場。北京五輪での金メダル獲得にも大きく貢献した。

直近の参加大会、結果

  • 2004年 アテネ五輪:銅メダル
  • 2006年 世界選手権(中国):銀メダル
  • 2008年 北京五輪:金メダル
  • 2010年 世界選手権(ベネズエラ):銀メダル
  • 2012年 世界選手権(カナダ):金メダル
  • 2014年 世界選手権(オランダ):金メダル
  • 2016年 世界選手権(カナダ):銀メダル
  • 2018年 世界選手権(日本):銀メダル

プロフィール:北京五輪の金メダル獲得に貢献した日本の中心選手

1984年3月8日に神奈川県藤沢市で生まれた山田。父親は高校時代、400mの陸上選手で、その後競輪選手に。母親は高校時代、走高跳などの神奈川県屈指の陸上選手だった。運動神経の良さは両親譲りで、兄が2人おり、野球経験があるという。父親は2014年の世界選手権直前に急逝しており、奇しくも東京五輪の開会式の7月24日が、父親の命日と重なる。

山田は小学校のころから軟式野球を始め、御所見中学校では男子の野球部に所属、レギュラーとして活躍していた。高校進学時に、女子は甲子園に出られないと知り、県下のソフトボール強豪校である県立厚木商業高校に入学。

ソフトボールに転向するとすぐに主力選手となり、高校2・3年とインターハイ、選抜選手権で優勝を果たす。2002年に高校を卒業し、実業団の日立製作所に入社。その年の日本リーグで、いきなり本塁打王、打点王、ベストナイン、新人賞などの個人タイトルを総なめにし、2003年には日本代表入りしている。

代表でも即戦力となり、走攻守そろった1番打者として活躍した。2004年のアテネ五輪日本代表に選ばれ、銅メダルに貢献。1学年上の上野由岐子投手と共に若手の顔として注目を集める。2008年の北京五輪ではキャプテンとしてチームを率い、決勝でアメリカのエースからソロホームランを放つなどして、金メダルを獲得した。

その後も日本リーグの中心選手として、歴代記録を塗り替えていたが、2013年日本リーグのオフ期間に渡米。アメリカ女子プロソフトボールリーグの「シカゴ・バンディッツ」に所属し、プロリーグに参戦した。その2年後は同リーグの「ダラス・チャージ」でもプレーし、研鑽を積んだ。世界選手権には、6大会連続で出場中で、メディアからつけられた異名は、“女イチロー”だった。

経歴・プレーの特徴:数々の打撃記録を持つ、日本のレジェンド

国内では、2002年日本リーグでいきなり8打席連続安打という、前代未聞の快挙を成し遂げ、鮮烈なデビューを飾る。歴代の打点、本塁打、三塁打、二塁打、安打数は、現在においてもすべて1位。2018年度終了時に本塁打は40本を越え、安打数も400安打を突破した、日本リーグの打撃部門の紛れもないレジェンドだ。国内での背番号は「19」。日本代表での背番号は「11」となっている。

国際試合でも圧巻で、日本代表デビューイヤーの2003年、ジャパンカップ(アメリカ、中国、日本の3か国対抗)で攻守に活躍して優秀選手賞を受賞。その年の12月、オーストラリアで行われたエキシビションマッチ、最終日の最終戦。山田はオーストラリアのエース、メラニー・ローチから、延長8回裏に逆転サヨナラ満塁ホームランを打って、日本に勝利をもたらした。その後も国際試合でインパクトあるプレーを見せ続け、世界中に「日本にすごい新人が現れた」と強烈な印象を残した。

アテネ五輪に日本代表チーム最年少の19歳で出場すると、以降の五輪、世界選手権のすべてに主力メンバーとして欠かさず出場。センターとして、ホームラン性の当たりをジャンプして好捕、強肩を武器にビーム砲のようなバックホームで何度もランナーを刺してきた。

北京五輪決勝ではアメリカのエース、キャサリン・オスターマンとの対決で、1打席目はあえて一球も振らずにフルカウントまで見て、見逃し三振に。そこで見えたもの、つかんだ感覚で2打席目は打てる感覚を強く持ってバッターボックスへ。2球目のライズボールを狙い、見事ホームランにして見せた。

さらに、ベースランニングのスピードは世界屈指で、走塁の速さとガッツで相手にプレッシャーを与えて二塁打、三塁打にしてしまう。1番打者として長打、セフティバントなど、高い出塁率を誇り、先頭打者ホームランも常に狙っている。

12年ぶりのオリンピックに向けて:「金」を期待される怖さを知る山田の経験が日本を導く

北京五輪では息詰まる熱戦の末に、悲願の金メダルを獲得。凱旋帰国したソフトボール日本代表を待っていたのは、多くの報道陣たちと、ソフトボールに魅せられた人たちからの称賛だった。テレビでは感動の名場面として、ソフトボールの優勝の瞬間が何度も放映された。国内リーグの球場は満員になり、上野や山田にはサインを求める長い列ができた。ところがその後、ソフトボールが五輪から除外されると、少しずつ注目度は薄れて行った。

それを寂しく思うこともあったが、復活活動が実って、東京五輪出場にこぎつけたとき、山田は喜びと同時に不安を覚えた。金メダル獲得という最高の瞬間で前回の五輪を終えた日本に、地元開催の五輪で求められるのは、当然、金メダルしかないからだ。

アテネ五輪を19歳で経験した時に感じた、「(前回の)シドニー五輪で銀なら、次は金メダルしかない」「勝たなければいけない」という、想像を絶する重圧を背負ったときの状況と似ているという。五輪という舞台だけが持つ独特の“重さ”を知っているのは、代表選手では上野と山田のみとなった。

2018年の世界選手権千葉大会で、アメリカに惜敗した日本は、五輪に向けての報道の多さ、重圧に飲まれ、いつもより硬さが見られた。重圧に負けないチームにするため、怖いものも知っている山田だからできる準備を、チームメートとしっかりと整えていく。そして最高の守備技術、勝負強いバッティング、全力で駆け抜ける気持ちで、日本代表を金メダルへと導く。その先の日本のソフトボール界のためにも……。

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