杉谷泰造:祖父も父もオリンピック選手。7度目の挑戦で悲願のメダルを狙う
アテネ五輪では戦後日本人最高位となる15位に
祖父も父も馬術選手としてオリンピックに出場した。馬術一家に生まれた杉谷泰造(すぎたに・たいぞう)が、馬と一体となってトップライダーとなるのは必然だったのかもしれない。二十歳の若さでアトランタ五輪を経験すると、オリンピックには6大会連続で出場。日本の障害馬術界のエースとして2020年東京五輪での活躍が期待される。
キャリアのスタートは6歳の時
馬の世界の言葉を借りれば、杉谷泰造(すぎたに・たいぞう)は間違いなく「良血」だ。
祖父の川口宏一(こういち)氏と父の杉谷昌保(まさやす)氏はともに馬術競技でオリンピックの舞台に立っている。川口氏は1956年メルボルン五輪で馬術の大障害に出場。昌保氏は1968年メキシコシティー五輪から3大会連続で障害馬術の代表に選ばれた。川口氏の娘で、泰造の母である幾里(いくり)氏も馬術に取り組み、1983年に京都で行われた国民体育大会の成年馬場部門で優勝するほどの腕の持ち主だった。
1976年6月27日、馬術一家に生まれた少年が馬に乗り始めるのに、それほど時間は必要なかった。幼稚園の時は、家から園のバスが迎えにくる場所までの距離を、父が手綱を握る馬に乗せてもらっていたという。馬との距離が誰よりも近く、6歳の時には馬術競技を始めた。
馬術一家は小学校のころから泰造少年の将来を見据えていた。住まいは大阪府和泉市だったが、選んだ小学校は兵庫県神戸市のインターナショナルスクール。いずれ馬術選手として海外で腕を磨くには英語力が必要になる——そんな思いから入学したインターナショナルスクール時代、小学3年生の時に初めて大会に参戦した。結果は2位。悔し泣きした。
17歳の時からヨーロッパで活動
中学時代にはすでに、祖父や父が躍動したオリンピック出場を意識していたという。着実に力をつけると、17歳の時にヨーロッパに渡り、オランダのヘンク・ノーレン氏に師事した。
世界屈指のライダーとして知られたノーレン氏のもとで腕に磨きをかけながら、ヨーロッパ各地の大会を転戦する。障害馬術の楽しさと奥深さに刺激を受ける生活を続け、国際舞台でも戦える技術とメンタルを身につけた。
初のオリンピック出場は1996年のアトランタ五輪。二十歳の若さで挑んで挑んだ祭典では、個人では62位に終わったものの、団体では15位というまずまずの成績を残した。アトランタ五輪を含めオリンピックには6大会連続で出場している。2004年のアテネ五輪の個人では、戦後日本人最高位となる15位の成績を残した。
夏季オリンピックは6大会連続出場、日本選手最多の記録を持つ杉谷は2017年7月、アートコーポレーション株式会社と所属契約を結び、これまで以上に競技に専念できる環境を得た。その効果もあったのだろう、2018年8月にインドネシアで行われたアジア競技大会では団体で銀メダル、個人で4位という成績を残すことができた。
少年時代にはあまりの手綱さばきから競馬騎手への転向を打診されたという。だが、「乗馬の発展に貢献したい」と障害馬術を極める道を選んだ。前人未到の7度目の挑戦、しかも自国開催の東京五輪という大舞台で杉谷が栄光を手にすれば、馬術競技の注目度はぐっと増す。ひいては競技人口も増え、馬術のレベルも上がっていく。2つの意味で杉谷の夢が叶う。