身近な先輩にあたる中野義弘の姿を見て憧れたオリンピック。そして念願かなって出場したリオ五輪の舞台だったが、そこで桝井俊樹(ますい・としき)は世界との差を見せつけられてしまった。リオ五輪で味わった悔しさを発奮材料に、東京五輪での雪辱を誓う。
アテネとロンドンは落選。リオでは予選敗退
オリンピックの競技として行われる馬術には3つの種目がある。コース上の障害物を飛び越える際のミスの少なさと走行時間で競う「障害馬術」、ステップといった演技の美しさを競う「馬場馬術」、そしてこの2つにクロスカントリーを加えた「総合馬術」の3つだ。
この「障害馬術」で日本代表を狙うのが、1969年11月13日に50歳を迎える桝井俊樹(ますい・としき)だ。1998年にタイのバンコクで開催されたアジア競技大会では団体で金メダル、個人では4位に食い込んだ。その後、2002年の全日本障害馬術大会では内国産障害で優勝し、同年にはスペインで開催されたヘレス・デ・ラ・フロンテーラ世界馬術選手権に出場。2004年の全日本障害馬術大会の大障害S&Hで優勝を果たすなど、多くの経験を積み、数々の大会で結果を残してきた。
それでも、オリンピック出場への道は険しかった。2004年のアテネ五輪、2012年のロンドン五輪をめざしたが、惜しくも落選。だが決して諦めることなく挑戦を続け、2016年のリオ五輪で長年の夢をかなえ、46歳にして初のオリンピック出場を果たす。そして迎えた夢の舞台であったが、世界の壁は高く、結果は予選敗退に終わってしまう。あらためて世界とのレベルの差を目の当たりにした大会となった。
アジア競技大会の団体では銀メダルを獲得
奈良県広陵町に生まれた桝井の幼いころの夢はプロ野球選手だったという。だが8歳の時に母親と姉が乗馬を始めたことをきっかけに自身も乗馬を楽しみ出した。
オリンピックをめざすようになったのは、子どものころから通っていた乗馬クラブクレインの先輩に、オリンピックに過去3度出場経験がある中野義弘がいたからに他ならない。身近な先輩の活躍を目の当たりにした桝井は、オリンピックの舞台に憧れを抱くようになっていた。
すでに述べたとおり、桝井がリオ五輪に出場したのは46歳の時だ。大会に出場した日本選手団のなかでは最年長だった。ただし、乗馬という競技においては、年齢は豊富なキャリアを表す。71歳でロンドン五輪に出場した法華津寛(ほけつ・ひろし)が好例だろう。
もうすぐ50歳になる桝井には、酸いも甘いも噛み分けた「経験」という大きな武器がある。実際、2018年にジャカルタで開催されたアジア競技大会の団体では見事に銀メダル獲得に貢献した。個人では42位と低迷したものの、リオ五輪の屈辱に新たな発奮材料が加わったと考えれば、桝井には成長の余地がまだまだ残されていると言っていい。
馬に乗り続けて40年以上。1998年には主な活動拠点をオランダに移し、20年ほど本場で腕に磨きをかけ続けてきた。馬について「自分のために飛んでくれているだけで素晴らしい動物だと思う」と無条件の賛辞を送る桝井は、愛馬と一体となって東京五輪での躍進を狙う。