2021年12月初旬のスピードスケート・ワールドカップ第4戦カルガリー大会で、**小平奈緒は女子1000mを制して通算勝利数を34とし、元スピードスケーターの清水宏保**に日本歴代最多勝利数で並んだ。
この勝利数からも、小平が長きにわたってトップレベルで活躍してきたことがわかる。
1986年寅年生まれ、35歳の小平は自身のソーシャルメディアで日々感じていることを自分の言葉で丁寧に表現し、さまざまな思いを発信している。彼女の言葉は時にアスリートではない一般の私たちにも共通する気づきを与えてくれ、「氷上の求道者・哲学者」と呼ばれることも。そんな小平のこれまでの歩みを追ってみたい。
11歳が感じた長野オリンピック
小平がオリンピックデビューを果たしたのはバンクーバー2010のことだが、初めてオリンピックを意識したのは11歳のときだ。1986年に長野県で生まれた小平は、1998年の長野オリンピックで世界中から集まったアスリートたちの姿を見て、「いつか自分もスピードスケート選手としてオリンピックの舞台に立ち、多くの人の心を動かせる存在になりたいと思った」という。
それから10年以上が過ぎたバンクーバー2010、小平は夢の舞台に立つこととなり、女子チームパシュートで銀メダルを獲得した。目標にしてきたオリンピアンとして好成績を残したが、それは次第に「メダルをとらなきゃ」というプレッシャーとなり、小平の心を占領していく。
責任感を胸に臨んだ4年後のソチ2014では、500mで5位、1000mで13位に留まり、期待した結果を得ることはできなかった。
大会から2ヶ月後、27歳の小平はスピードスケートの本場オランダへ武者修行に出た。4年後の平昌オリンピックを見据えると1年間が妥当だと思われたが、予定を変更して2年間に延長。もっと自由な気持ちでスケートや人生と向き合ったオランダ留学は、小平に学ぶ姿勢を習得させ、彼女をひと回りも、ふた回りも大きくした。
2018年の平昌大会では日本選手団の主将を務め、500mで金メダル、1000mで銀メダルを獲得し、500mではオリンピック新記録を樹立。表彰式後のインタビューでは「自分から見えている景色が、清水宏保さんや岡崎朋美さんが長野五輪で見た景色と一緒なんだなと思い、感動しました」と語った。
地域に密着するアスリート
長野オリンピック施設「エムウェーブ」を拠点に活動する小平は、地元の魅力をたびたびソーシャルメディアで発信する。2019年に長野が大きな台風被害を受けた際には、「一緒に乗り越えよう」というメッセージを発信し続け、被災した家屋の泥のかき出しや畑の整備などのボランティアを行った。
地元の人からの手紙や言葉は小平の励みや新たな発見の機会になっており、それがアスリートとしてだけでなく、ひとりの人間としての成長につながっている様子が伺える。2020/2021シーズンには台風被害に遭ったリンゴ農家を元気づけるため、リンゴが描かれた赤のユニフォームを身にまとった(今シーズンは、医療従事者に感謝を示す青と白衣をイメージする白のユニフォームで戦っている)。
ライバル関係は得意じゃない
自分の気持ちとしっかり向き合い、地元の人々をサポートし、世界トップレベルに君臨するが、意外なことに、子どもの頃は引っ込み思案だったという。中学で初めて出場した全国大会に向かう際、父・安彦さんは3人姉妹の末っ子だった娘を「友達をたくさん作っておいで」といって送り出した。
そのときから、小平にとってスケートは友達を作るツールとなった。自身のインスタグラムでは「『ライバル』は敬遠しがちな仲だと思われるかもしれませんが、私はスポーツのそういった雰囲気があまり得意ではありません」とつづる。それを体現するエピソードとして、ジュニア時代から競い合った元スピードスケーターの**イ・サンファ**(韓国)とは親しい関係を築いており、ふたりの友人関係は平昌大会で大きく取り上げられた。
2021年夏に行われた東京オリンピック期間中には、「改めて私たちにとってオリンピックの『舞台』は、生き様を示す自己表現の場所なんだということを感じています」とつづった小平。「勝負にこだわらず、生きるにこだわる」を掲げ、自分の身体や氷と対話し、自分のスケートそして生き方を模索してきた彼女が、まもなく集大成ともいえる北京オリンピックの舞台に立つ。