この物語は、「終」からはじまる。
舞台は、長野1998のクロスカントリースキー男子10km競技。この種目で、最初にゴールへ飛び込んだのは、クロスカントリースキーのスーパースター、ビョルン・ダーリ(ノルウェー)だった。この成績により、ダーリはオリンピックの金メダル6個目を数えるという記録的な快挙を成し遂げた。
だけど、この物語の「始」は、ここではない。
ダーリがゴールしてからおよそ20分後、メダルセレモニーが始まろうとしているのに、彼はフィニシュラインの後ろで最終走者の帰りを待っていた。彼が待っていたのは、**フィリップ・ボイト**だ。雪の降らないケニア出身のボイトは、長野大会のたった2年前に、生まれて初めて雪を見て、そこからさらに、冬のオリンピックのステージで戦うことになったのだ。他の選手と比較しても、クロスカントリー初心者のようなボイトにとって、オリンピックは想像以上にハイレベルだっただけでなく、雪が激しく降る天候も重なって、より厳しいものになってしまった。
「彼を励ましてあげたかった。あの厳しい状況でも、彼は決して諦めなかった」と、ダーリは当時を回想する。
後方集団からも遅れをとってしまったボイトだが、最後の力を振り絞り、ラストの直線を懸命に滑ってゴールを目指していた。その姿に、日本の観客も大きな声でボイトにエールを送った。
「あの場にいた日本の人たちが、『ケニア、ゴー! 』とか『フィリップ、がんばって! 』って叫んでくれていた。最後にゴールをしたのに、まるでメダルが決まったかのような声援だったよ」と、ボイトも当時の事を振り返る。
これでもかと息を切らしながら、観衆の大合唱に支えられて、ボイトはフィニッシュラインを通過することができた。
その頃、優勝したダーリは、セレモニーの開始を遅らせるように頼んで、ボイトの帰還をゴール付近で待っていた。ボイトのフィニッシュ後、制御不能状態だった彼の腕を掴んで、ブレーキをかけるように、自分では止められなかったボイトの勢いを緩めてあげた。そして、祝福と労いの気持ちを込めて、ダーリはボイトをハグしたのだった。
「僕のコーチがよく(ダーリのことを)話題にしていましたし、僕も彼のことをよくテレビで見ていました。でも、優勝した彼が、僕のことを待っていたなんて、信じられなかったです」
同じ土俵
ゴールテープを切るのが、最初であろうと最後であろうと、アスリートの戦う土俵はいつも同じだ。
この物語が誕生した日、ふたつのオリンピックの歴史も生まれた。ひとつは、ダーリが通算6個目の金メダル獲得という金字塔を打ち立てたこと。もうひとつは、ボイトがケニア初の冬季オリンピアンとして、棄権することなく完走したことだ。
だけれども、このふたつの歴史的快挙の道程に、大きな違いはない。
ダーリの母国ノルウェーは、クロスカントリーの強豪国で、サッカーと同じくらい人気がある。ダーリは幼少時からスキーに親しみ、ほかにも狩りや釣り、ハイキングやカヤックなど、アウトドアのアクティビティに積極的に参加していた。
ダーリにはサッカーの才能もあったのだが、ジュニア時代の活躍もあって、最終的にクロスカントリーへ傾注する。そして、アルベールビル1992とリレハンメル1994の2大会で、金メダル5個と銀メダル3個を獲得。3度目の出場となる長野1998では、10kmを含む3種目で優勝し、また銀メダル1個も手に入れたので、通算で金8個、銀4個、合計12個のオリンピックメダルを、その首にかけた。
1999年8月、怪我のため、次期ソルトレークシティ2002を断念し、ダーリは輝かしい競技人生に終止符を打つことを決めた。
雪も板もないけれど
一方のボイトは、雪の降らないケニアの大地溝帯付近の農家出身で、雪を初めて見たのは、長野1998のわずか2年前のことだった。もともと、中距離走のランナーだったボイトは、有名アパレルブランドのオファーを受けて、もうひとり別の仲間と一緒に長野の冬季オリンピックに挑戦することとなった。
まずは、熱帯地域の母国で、ローラースキーのトレーニングから始める。そして1996年2月、寒冷のフィンランドへ移ることになるのだが、初めて見る雪だけでなく、雪上のトレーニングに驚きを隠せなかった。
「最初はチャレンジな日々でした」と、ボイトは話す。「これまでの人生のなかで、寒い地域で過ごしたことがなかったですし、スキー板だって履いたことがなかったのですから」
その後、ケニアはオリンピック出場枠をひとつ獲得し、ライバルとの国内選考を経て、ボイトは代表に選ばれる。そして、唯一のケニア代表選手として、長野1998開会式では旗手も務めた。
ちなみにボイトは、ソルトレークシティ2002とトリノ2006にも、ケニア代表として出場しており、長野の時とは違って、後続選手を引き離しながら、最下位ではなく、少しずつ順位をあげてゴールしており、彼のスキー技術の向上を世界にアピールした。
その後、自らの病気が発覚し、ボイトもまた次期大会となるバンクーバー2010を断念することになったが、2011年、親友のダーリのホームであるオスロ(ノルウェー)で行なわれた世界選手権に出場し、彼の応援を受けながら完走した。そして、クロスカントリー・スキーヤーとしてのキャリアに幕を下ろした。
「終」のない友情
長野1998から数週間後、ボイトに長男が誕生した。その赤ん坊は「ダーリ」と名付けられた。
現在23歳となったダーリ・ボイトは、自分の名付けの由来となった父の親友に初めて会うことになった。そして、一緒にトレーニングをしながら、チャリティー・イベントに参加したりして、楽しい時間を過ごしたのだった。
ふたつの物語は、異なる軌跡を辿りながら、長野という場所で交差し、相手を思いやる親切から、ひとつの友情が芽生えた。そして、その友情は、冬のオリンピックの心温まるストーリーとして、今もなお、息づいている。
オリンピックの価値のひとつして掲げられている「Friendship=友情」
20年以上の時を経ても、ふたりの友情は、「終」ことなく、これからも続いていく。
親切は、人を、つなげる
#strongertogether
#世界親切デー