信じられないほどのアスリート。才能あふれるランナー。スーパースター。並外れた挑戦心。
これらは、男子マラソン世界記録保持者ケルビン・キプトゥムを表現するために、スポーツ界で使われてきた言葉の一部だ。24歳のキプトゥムはケニア西部のランニングの街カプサベトで交通事故に遭い、若くしてその生涯を閉じることとなった。
彼はたった3度のマラソンで、ケニアの新進気鋭のアスリートという存在から長距離界で最も注目されるアスリートのひとりとなった。
2023年のシカゴマラソンで刻んだ2時間0分35秒という記録は、当時の世界記録を34秒も塗り替えるものだった。
それはまた、彼の類まれな才能に世界が注目した瞬間でもあった。
彼はこの走りでマラソンレースを2時間0分台で完走した最初の人物となった。彼はマラソン界のスーパースターになるだろうと多くの人が予想し、今年夏のパリオリンピックで金メダルの有力候補とされた。
2月11日(日)に息を引き取ったとき、彼はそのときまであと1レースに迫っていた。4月14日のロッテルダムマラソン(オランダ)への出場を予定していた彼は記録更新を掲げており、それは彗星の如く現れた彼の才能が確かなものとして世界に示されるレースとなるはずだった。
しかし、私たちは彼の才能そしてその可能性をもう見ることはできない。あるいは、フランスの首都パリでキプトゥム対キプチョゲという、オリンピックのマラソン史で最高のレースのひとつになったかもしれないレースを見ることもできない。
ケルビン・キプトゥム、バレンシアとロンドンで栄光への快進撃
キプトゥムにとって2023年は変化の大きな1年だった。
4月には雨のロンドンマラソンで優勝。2時間1分23秒は史上2番目(当時)の記録となった。
その日、彼はエリウド・キプチョゲがベルリンで2022年に塗り替えた世界記録まであと16秒に迫り、2時間2分以内でマラソンを完走した最年少ランナーとなった。
キプトゥムは、そのわずか4ヶ月前にマラソン史上最速のデビュー記録(2時間1分53秒)を樹立しており、さらに速く走れると信じていた。
昨年10月、3度目にして最後のマラソン大会となるシカゴに向かう前、彼はOlympics.comにこう語った。
「自分は2時間0分台に近いタイムで走れるよ。2時間0分台は可能だ。まだ若いから、今は無理かもしれないけどね」
2019年に同じくケニアのキプチョゲがマラソン(非公認レース)で人類はじめて2時間の壁を破ったとき、キプトゥムはフルマラソンをまだ完走さえしていなかった。
当時、ハーフマラソンの選手だったキプトゥムは、キプチョゲの1時間59分40秒という走りにただただ驚くしかなかった。
しかし、マラソン界では無名だった彼は2022年12月にバレンシアで栄光を味うと、最高の選手になれるという自信を手に入れた。
「バレンシアは...マラソンの旅の始まりで、とても幸せでした。バレンシアでの目標は2時間4分台か2時間5分台だったけど、2時間1分台で走ることができた。バレンシア前の練習を振り返ると、長めの距離を何度か走って、マラソンのための最高のトレーニングをしていたんだ」
ケルビン・キプトゥム、トレーニングにひたむきに取り組んだ男
それらの長距離走はキプトゥムの人生の大半を占めていた。
ケニアの首都ナイロビから北西370kmに位置する彼の故郷エルギョ・マラクウェット州チェプコリオで、彼が未舗装の道路でジョギングし始めたのは13歳のころだった。このケニアの有名なランニングの中心地で育った多くの少年たちと同様、彼の大きな夢はアスリートになることだった。
この地域では、キプトゥムと同じ村の出身でニューヨークマラソンを2度制したジョフリー・カムウォロルなど、偉大な選手を輩出してきた。彼は自分自身もこの地域出身の最高の選手のひとりになれると信じていた。
10代の彼は、自分の道を切り開くために懸命な努力を重ねた。トラックを走らない理由について、彼はOlympics.comのインタビューでこう振り返っている。
「練習を始めた頃はマラソンランナーやロードレーサーと一緒で、気がついたらロードレースを走るようになっていた。僕がトレーニングしている場所には、トラックがなかったというのもある」
「エルドレットに行くお金も、キプチョゲ・ケイノスタジアムにトラックセッションをしに行くお金もなかった」
まだ18歳だった2018年のエルドレット・ハーフマラソンで優勝し、翌年にはフランスで行われた別のレースでも1位になった。
「実はそのとき、僕はすでにマラソンのトレーニングをしていたんだ。だけど、マラソンを走るチャンスはなかった。あと2、3年待ってからマラソンに出ようと自分に言い聞かせました」
2021年にコーチのゲルバイス・ハキジマナ氏に師事するまで、キプトゥムは何年も自己流で練習に励んでいた。交通事故で一緒に亡くなったルワンダ人のハキジマナ氏は、ケニアの有名な高地でかつてトレーニングを行っており、ふたりはそこで友情を育んだ。
2008年と2009年の世界ハーフマラソン選手権にルワンダ代表として出場したハキジマナ氏はこう説明したことがある。「彼の家の近くで僕が(坂道を使った)ヒルトレーニングをしていたとき、彼は家畜を放牧していて、僕は彼とよく遊びました。彼は冗談で僕を蹴って、長い目で見ると、あのとき僕たちは一緒に走るようになったのです」。
ハキジマナ氏はキプトゥムの過酷なトレーニング内容を世に知らしめた人物でもある。回復のための日やオフの日はほとんどなく、24歳の彼の生活といえば「走って、食べて、寝る」ことだった。
AFP通信のインタビューでハキジマナ氏は、キプトゥムが月曜、水曜、木曜、金曜、日曜に長距離を走ることを明かしており、火曜はトラックでのファルトレク(速いペースと楽なペースを繰り返す)セッションに充てていたという。
しかし、彼のトレーニング習慣に関するさらなる事実が、多くの人の関心を誘った。木曜と日曜、キプトゥムはマラソンペースで40kmを走るというのだ。
ペースダウンを余儀なくされたのは、シカゴマラソンの2週間前に体調を崩したときだけだった。欠場することも考えたが、コーチの説得で最終的に出場を決めた。
ハキジマナ氏は生前、次のように振り返ったことがある。「(シカゴマラソンの)2週間前に突然体調を崩し、体が弱ってしまいました。さらに悪化させたのは急性扁桃炎で、彼の首は腫れていました。私はその状況に対処しなければならず、シカゴに出場しないわけにはいかないと彼に伝えました」。これがキプトゥムの最後となった偉業をより輝かしいものにしたのだった。
ケルビン・キプトゥム「2024年は自分にとって良い1年になる」
世界記録を樹立したシカゴでのレースの途中、キプトゥムに疲れた様子は見られなかった。ほぼ平坦なコースのフィニッシュラインを切ったとき、彼は冷静で、生き生きとしているようにも見えた。
レース終盤にもし誰かが彼に挑戦していれば、もっと速く走れたはずだと多くの人が思ったことだろう。
そして、自身3回目のマラソンで史上最速タイムを記録した彼は、ロッテルダムマラソンのほとんど平坦なコースで自分自身を試すことを決意した。
オリンピックイヤーを迎えた2024年、キプトゥムが輝きを放つチャンスは無限にあるように思われた。
2024年のマラソン計画を明かした記者会見で、「ここ(ロッテルダム)に戻って速く走りたい」と彼は気持ちを込めて語った。
「この平坦なコースは速いタイムを出すのに適している。ここで、自分の世界記録を破るような走りをしたい。準備がうまくいって、コンディションがよければ、自分にはそれが可能だとわかっている。その場合、サブ2(2時間以内)の壁に近づくことになる。だから、それを破ることを目標にしたい。大きな望みに聞こえるかもしれないけど、こういう目標を立てるのは怖くない。人間のエネルギーに限界はないからね」
目標を語るときのキプトゥムは、いつも落ち着いていて明瞭だった。トレーニングにひたむきに取り組んだ彼は、明らかにマラソンの可能性を再定義するためのレースの中にいた。
彼のもうひとつの目標はパリオリンピックだった。そこでは、偉大なランナーであるキプチョゲと直接対決する可能性があった。
「2024年は僕にとっていい年になると思う」と彼は宣言した。「ロッテルダムの後にはオリンピックがある。オリンピックに出場してもし金メダルを獲得できれば、幸せだろう」。
残念なことに、キプトゥムのキャリアと人生はあまりにも早く終わりを迎えてしまった。
しかし彼の情熱に満ちた言葉は、チャンスを掴もうとするランナーたちに影響を与え、サブ2というマラソン界の夢を追う勇気を彼らに与え続けることだろう。