「結果がめちゃめちゃ悪いところから始まっているので、少しずつ立て直しながら、悔いの残らないようにベストを尽くして、最後まで滑り切りたい」
パリ2024オリンピック4カ月前の2024年3月、アラブ首長国連邦ドバイ。
オリンピック予選6戦目にして2024年最初のドバイ大会で、スケートボーダーの堀米雄斗は、夏に迫っていたオリンピックに向けての気持ちをそうOlympics.comに語った。
日本勢が獲得できるオリンピック出場枠は最大3枠。東京2020オリンピック金メダリストの堀米は、2022年夏に始まった予選期間で一時日本勢5番手に沈み、この時点でも圏外の4番手に立つなどパリに向けて出場さえも危ぶまれていた。パリオリンピックまで数少なくなった予選大会。堀米の仕草からは不安な様子がうかがえ、その言葉は自分に言い聞かせているようにも響いた…。
しかし歓喜に沸いた夏のオリンピックで、堀米は2連覇を達成して金メダルを首にかけた。出場圏外から金メダルへ。2024年の堀米雄斗伝説はどのように現実のものとなったのか。
堀米雄斗、絶望的だったオリンピックへの道
激しい日本代表争いが繰り広げられたスケートボード男子ストリート。東京2020以降、「本当に行き詰まってたし、何をやってもうまくいかないことがすごく多かった」という堀米は、ドバイ大会を準決勝敗退で終え、オリンピック出場圏外の日本勢4番手で予選最終2大会を迎えることとなった。
5月の「オリンピック予選シリーズ(OQS)上海」がまずその1つめだ。
だが、この上海大会は堀米を絶望のふちに追いやるには十分な結果だった。上海での一戦は、オリンピック出場を狙うスケーターたちの気迫のパフォーマンスがぶつかり合い、予選から高レベルの戦いが繰り広げられた。その中で堀米はまさかの予選敗退。日本勢5番手へと順位を落とした。
堀米は当時の思いをこう振り返っている。
「中国でも(得点が)出なくて、もうオリンピック行けないなって思って諦めて…」
「でも大会が終わって、点数とか色々みんなが調べてくれて、まだチャンスがあるって分かったときに、ラスト1回、自分の持ってるものを全部出そうと思いました」(Olympics.comインタビューより)
堀米雄斗、「1%でも可能性があるならば」
そして1カ月後に迎えた最終予選「オリンピック予選(OQS)ブダペスト」。優勝しても他の日本選手の成績によってはオリンピック出場を逃す可能性もあるという状況の中、堀米は「もし可能性が1%でもあるなら、最後まで滑りきりたい」とすべてをぶつけ、怪我をしながらも優勝してパリ行きを掴み取ったのである。
優勝を決定づけたのは「ノーリーバックサイド270ブラントスライド」。決めた瞬間、堀米は雄叫びをあげ、これまで見せることがあまりなかった興奮と感情を露わにした。
しかし王者・堀米のストーリーはここでは終わらない。ブダペストでの最高の瞬間は1カ月後にさらなる感動で上書きされることになる。
7月29日、パリ中心部のコンコルド広場。
堀米は2度目のオリンピックの舞台に立ち、暫定7位で挑んだ決勝最終5本目のトリック。トップに立つには96.99点が必要となる中、堀米はブダペスト大会で逆転劇を演出したあの技「ノーリーバックサイド270ブラントスライド」を再び成功させ、同日最高得点となる97.08点をマークして首位に浮上しそのまま優勝を決めたのだった。
「(ベストトリック)4本目ぐらいまでは乗れなくて焦ってたし、プレッシャーに感じてたんですけど、5本目はそういうのも全部吹っ切れて、本当にここまで来るのにもういろんなことがあって、なんかそういうのもちょっと思い出しちゃって」
「泣いても笑っても最後の1回でもう終わりってことに、一瞬だったけど嬉しい気持ちも少しあったりとか、なんかわかんないけどすごい楽しめた感覚も少しあって。でもその中でも自分の世界観にちゃんと入れた」
「自分を信じきれたことが最後の乗れた鍵になっていると思う」
堀米雄斗にとってスケートボードとは
1%でも可能性がある限り戦い続ける堀米の姿を見て、やる気や勇気をもらった人は少なくないだろう。何かに挑戦したくなった人もいるかもしれない。
堀米は高校卒業後、単身で渡米して技を磨き数々の足跡を残してきた。自身の経験を踏まえ、スケートボードで海外に出たいという夢に躊躇する人がいるとするならこんなアドバイスをする。
「もしアメリカとか海外に行って挑戦したいっていう気持ちが少しでもあれば、それは若いときに、やれるときにやった方がいいと思う。行ってみないとわからないことだったりとか、経験できることとかもあったりするので、そういったことで、考えとか自分をもっと成長させることもできるから」(2024年3月のOlympics.comのインタビューより)
「もちろん不安はあると思うんですけど、そこを乗り越えられるといいチャンスが待ってたりするかなってのは思います」
渡米当初、堀米は言葉の壁を実感したがスケートボードで共に滑るという行為がその溝を埋めた。
「英語とかまったく喋れなくて、どう話したらいいかもわかんなかったんですけど、スケートに連れて行ってもらったときに、スケートで会話できていたような気がして、そのときのことは今でも思い出に残っています」
堀米はスケーター仲間と共に暮らし、食事をし、滑り、スケートボード文化にどっぷりと浸っていき世界の「Yuto Horigome」へと成長した。
そんな経験を経た堀米雄斗にとってスケートボートとは何なのか? スケボーやっていてよかったと思うことはどんなことなのだろうか?
堀米は「やっててよかったことしかない」とした上でこう続けた。
「もちろんつらいこととか、きついこともあったりするけど、それも全部ひっくるめて、スケートボード改めて全部好きだなってのはすごい感じてます。それが(具体的に)何かって言われると、本当色々ありすぎてわからないんですけど、スケートボードと出会えてなかった自分を想像できないし、スケートボードと出会わせてくれたお父さんにすごい感謝しています」。