柔道の名門、講道学舎出身。高校生でインターハイ優勝、大学生で世界王者に輝き、リオデジャネイロ五輪で金メダルを獲得。目の前の華々しい経歴だけを見る限り、大野将平は順風満帆な競技生活を送ってきたように見えるだろう。しかし、その素晴らしい経歴の裏側には、人知れず何度も経験した挫折があった。
優れた兄の“弟”
大野将平は1992年2月3日生まれ。山口県山口市の出身だ。のちにリオデジャネイロ五輪男子柔道73kg級で、金メダルを獲得することになる彼が競技を始めたのは5歳のときだ。2つ年上の兄、哲也に続いて、叔父、植木清治のもと、松美柔道スポーツ少年団で指導を受けることとなる。松美柔道スポーツ少年団には、ロンドン五輪代表となる上川大樹も所属していた。
兄、哲也の背中を追い、大野は柔道の名門、講道学舎に入門するために、山口市立良城小学校を卒業すると、東京都の弦巻中学校に進学した。小学校の高学年から大野は力を付けて、大会でも結果が出るようになっていた。しかし、この時点では、まだ身体も細く、むしろ、兄の哲也が注目されており、大野は単なる「大野哲也の弟」に過ぎなかった。
結局、大野は講道学舎で6年間、柔道を学ぶことになる。そこで身に付けたのが「一本を取る柔道」だ。講道学舎を創設した横地治男の孫であり、講道学舎の創成期に柔道に取り組んだ持田治也による指導、あるいは兄、哲也のまね、そして、シドニー五輪金メダリストの瀧本誠ら、尊敬する柔道家を参考に、内股と大外刈りで一本を取るスタイルを確立していく。2007年、柔道の名門、世田谷学園高校へ進学。2年生のときには、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)73kg級で優勝を果たす。しかし、翌年は負傷の影響もあり、全国大会出場はならず。不本意のまま、高校を卒業した。
才能開花で世界王者に輝くも、暴力事件で引退の危機
2010年、大野が進学先に選んだのは、奈良の天理大学だった。高校まで柔道を学んだ講道学舎と天理大学柔道部は、ともに「正しく組んで正しく投げる」ことを重視している。このことが、講道学舎で柔道の基礎を身につけた大野にはプラスに働いた。天理大学柔道部の細川伸二と穴井隆将の指導により、大野はそのスタイルをさらに洗練させる。2012年、講道館杯全日本体重別選手権大会、グランドスラム・東京の73kg級で優勝。2013年8月、リオデジャネイロで開催された世界選手権大会の73kg級に出場し、オール一本勝ちで金メダルを獲得した。
世界選手権で優勝した大野だったが、その翌月の9月、主将を務めていた天理大学柔道部で起きた暴力事件が発覚する。大野も暴行への関与が認められ、大学から停学処分、全日本柔道連盟から3カ月間の登録停止処分と強化指定選手の解除を受けた。謹慎中、大野は山口に帰郷し、競技をやめたいと周囲にもらすほど、精神的なショックを受けていたが、松美柔道スポーツ少年団で子供たちを指導するなどして、次第に競技への情熱を取り戻していった。
勝利へのこだわりで大きく成長
2014年、大学を卒業した大野は、アトランタ五輪71kg級金メダリストの中村兼三が監督を務める旭化成の柔道部に入部した。すると、4月には全日本選抜体重別選手権大会73kg級で優勝し、二度目の世界選手権出場権を獲得する。しかし、チェリャビンスク(ロシア)世界選手権で金メダルを獲得したのは、ロンドン五輪代表の中矢力(ALSOK)。前回大会をオール一本で優勝した大野は、4回戦敗退に終わった。翌年春、大野は旭化成柔道部に籍を置いたまま、母校、天理大学の大学院に入学し、再び奈良を拠点とする。2015年にカザフスタンのアスタナで開催された世界選手権決勝で、中矢を破り、2年ぶりに優勝を果たす。オール一本とはならなかったが、勝つことへのこだわりを見せた結果だった。オリンピックイヤーとなる翌年の柔道グランプリ(デュッセルドルフ)と選抜体重別で優勝。リオデジャネイロ五輪の出場権を掴んだ。
2012年ロンドン五輪で日本男子柔道は、金メダルをひとつも獲得できずに終わった。1964年に東京五輪で柔道が採用されて以降、出場した大会で金メダルがゼロだったことは初めてだった。メディアでは日本柔道「惨敗」の文字が躍った。迎えた2016年のリオデジャネイロ五輪。日本男子柔道が雪辱を果たす瞬間が、大会第4日に訪れた。73kg級2回戦から出場の大野は、コスタリカ、アラブ首長国連邦(UAE)の選手に一本。続く準々決勝でラシャ・シャフダトゥアシビリ(ジョージア)に優勢勝ち。準決勝はディルク・バンティヘルト(ベルギー)をともえ投げ一本で退けて、決勝はルスタム・オルジョイ(アゼルバイジャン)に背負い投げで一本を取り、金メダルを獲得した。
正しく組んで正しく投げる柔道
リオデジャネイロ五輪後、大野は山口県民栄誉賞、紫綬褒章を受けるなど、国民的な英雄となった。ただ、年末のグランドスラム・東京は負傷を理由に欠場。さらに2017年の選抜体重別も大学院の学業を優先するために欠場。世界選手権の出場も見送った。1年近く競技から離れる中、大野が取り組んでいたのが修士論文だ。そのテーマは大外刈り。自身の得意技を理論的に分析することで、伝統的な柔道「正しく組んで正しく投げる」を再確認した。
2018年1月末に修士論文を提出すると、2月にはグランドスラム・デュッセルドルフ73kg級で優勝を果たす。4月の選抜体重別は準決勝で敗退。66kg級から階級を上げてきた講道学舎の先輩、海老沼匡(パーク24)に敗れたものの、1年間のブランクを感じさせない内容だった。8月には、インドネシアのジャカルタで開催されたアジア大会73kg級の代表として出場。準決勝まで一本で勝ち上がる。決勝戦の相手は韓国のアン・チャンリム(安昌林)。大野の柔道を研究し尽くして、投げられないこと徹底するアンを相手に、11分を越える激戦を繰り広げながら「優勢」で優勝を果たす。「正しく組んで正しく投げる」柔道を追求してきた大野だからこそ、優勢勝ちをおさめることができたのだろう。
五輪2連覇に死角なし
大野将平は2019年4月、73kg級で選抜体重別に出場。昨年の王者で2017年の世界王者、橋本壮市(パーク24)と決勝で対戦する。試合時間が9分30秒という長い闘いになったが、最後に大野が勝利を収め、世界選手権代表の座を射止めた。大野にとって直近の目標は世界選手権での王座奪還だろう。ただ、その視線の先には、東京五輪があるはずだ。「正しく組んで正しく投げる」という本来の柔道を追求してきたからこそ、大野にしかできないことがある。何度も挫折を味わいながら、大事な場面で最高の舞台に戻ってきた男、大野に五輪2連覇の死角はない。