プロ選手の参加が認められたことで、世界中の注目を集めた2000年シドニー五輪の野球競技。日本代表へも大きな期待が寄せられたが、その結果は……。大田垣耕造監督に率いられた日本代表の選手構成やその戦いぶりを振り返る。
8名のプロ選手がメンバー入り
今ではプロ選手の出場が当たり前になったオリンピックにおける野球競技だが、1996年のアトランタ五輪まではプロ選手に出場資格はなく、アマチュア選手のみの参加に限られていた。2000年のシドニー五輪は、野球競技へのプロ選手の参加が認められた記念すべき大会だ。
大田垣耕造監督に率いられた当時の日本代表チームは、投手と野手含めて全24名が選出され、そのうちプロ選手は下記の8名が名を連ねた。所属球団名は当時のもの。
●投手
河野昌人(広島東洋カープ)
松坂大輔(西武ライオンズ)
黒木知宏(千葉ロッテマリーンズ)
●捕手
鈴木郁洋(中日ドラゴンズ)
●内野手
松中信彦(福岡ダイエーホークス)
中村紀洋(大阪近鉄バファローズ)
田中幸雄(日本ハム・ファイターズ)
●外野手
田口 壮(オリックス・ブルーウェーブ)
8名の内訳は、セントラル・リーグからは河野と鈴木の2名、パシフィック・リーグからは各球団から1名ずつの計6名となっている。
プロ選手以外では阿部慎之助(中央大学)や廣瀬純(法政大学)ら大学生選手5人、杉内俊哉(三菱重工長崎)や杉浦正則(日本生命)、赤星憲広(JR東日本) ら社会人選手11人が選ばれ、プロ・アマ混成の日本代表チームを構成した。
エース松坂もロッカーで悔し涙を流す
大会の最終成績は、金メダルがアメリカ、銀メダルがキューバ、銅メダルが韓国となった。プロ選手の参加によりこれまで以上に期待の高まっていた日本は4位。3大会連続でのメダル獲得を逃した格好となった。
その戦いぶりは、好不調が実にはっきりしたものだった。
予選リーグ初戦のアメリカ戦こそ延長13回サヨナラで2−4の敗戦を喫した日本だったが、その後、オランダ、地元オーストラリア、イタリア、南アフリカに危なげなく勝ち切り、第2戦から第5戦までで4連勝を果たす。好調を維持し、上位戦線に食い込んでいった。
しかし、日本はここからリズムを大きく乱していく。第6戦で韓国に6−7で競り負けると、キューバとの第7戦も2−6で落としてしまう。一気に不調の波に飲まれてしまった。
予選リーグは通算4勝3敗。8チーム中4位に滑り込み、なんとか決勝トーナメントへの切符を手に入れた。
準決勝の相手はキューバ。2大エースの一角である黒木を先発させるも0−3の完封負け。メダルをかけた3位決定戦には同じく投手陣の柱を担った松坂をマウンドに送り出したが、韓国に1−3で敗戦。日本は狂った歯車をもとに戻すことができず、予選リーグ第6戦から3位決定戦まで4連敗を喫してシドニーを後にすることになった。
「ロッカーに戻ってみんなの姿を見たら、もらい泣きしました」
当時20歳で国民の大きな期待を背負った松坂は、取材陣に対してロッカールームで悔し涙を流したことを明かし、4年後のアテネ五輪でのリベンジを語った。
「ただのいい経験で終わるか、経験を生かして財産になるかは自分次第。4年後にまた選ばれたら、この悔しさを晴らしたい」