野球日本代表はこれまでのオリンピックで合計5つのメダルを獲得してきた。その歴史のなかでとりわけ目を引くのは、今から約30年前に銀メダルを勝ち取ったチームだ。1988年のソウル五輪、アマチュアしか出場を許されなかった時代とは思えぬ選ばれし精鋭たちが、世界の頂点をめざして激闘を繰り広げた。
代表選手20名のうち3名が「名球会」入り
日本はアメリカに次ぐ野球大国として、オリンピックでも常に表彰台の常連国となってきた。
正式種目として採用された1992年のバルセロナ五輪以前、つまり公開競技として行われた時代にも、1984年のロサンゼルス五輪で金、そしてその4年後の1988年ソウル五輪で銅メダルに輝いている。特にソウル五輪では、のちのプロ野球界を支える黄金メンバーが名を連ねており、今振り返ってもその豪華なリストに目を奪われる。
現在こそプロ選手の出場が可能となっているが、1996年アトランタ五輪までは出場を許されたのはアマチュア選手のみ。当時の代表チームは大学生や社会人が中心だった。
しかし1988年のソウル五輪の代表には、のちに名球会入りを果たす3選手がいた。日本人メジャーリーガーのパイオニアである野茂英雄、「ID野球の申し子」として名をはせた古田敦也、トリプルスリーや2000本安打を達成した野村謙二郎だ。他にも「シンカーの使い手」として注目された潮崎哲也、現役引退後にスカウトとして坂本勇人の高い能力を見抜いた大森剛(たけし)など、代表選手20名のうち実に13名がプロ入りを果たしている。
「隻腕投手」アボットとの激闘、悔しい銀
出場国8カ国が2つに分かれて戦ったグループリーグで、日本はプエルトリコに7-1、、チャイニーズ・タイペイに延長の末に4-3、オランダに6-1と3連勝を飾り、見事に1位通過を成し遂げた。準決勝では韓国を3-1で撃破してみせた。
迎えた決勝戦では「野球の母国」アメリカと死闘を繰り広げた。強力なメンバーを擁した日本の前に立ちはだかったのは、先発として起用された「伝説の隻腕投手」ジム・アボットだった。先天性右手欠損というハンディキャップを背負いながらも、大会後にロサンゼルス・エンゼルス(当時はカリフォルニア・エンゼルス)やニューヨーク・ヤンキースで活躍するピッチャーを日本の打者陣はなかなか攻略できない。一度は3−4まで追い詰めたものの、結局3−5で敗れ、アメリカに金メダル獲得を許した。
日本代表の監督を務めていた鈴木義信氏は、ある取材で当時を振り返り「ピッチャーライナーを体で受け止め、すぐさま一塁に投げてアウトをとった」アボットの気迫を素直に称えた。その闘志あふれるプレーをまざまざと見せつけられ、気持ちで負けてしまった部分もあるという。
ロサンゼルス五輪に続く2連覇の夢は打ち砕かれたが、日本は銀メダルを首にかけて帰国した。前述の野村氏はオリンピックへ出場したことが、その後のプロ生活を送るうえでも大きな自信となったという。さらに、絶対に負けられない重圧の中で戦うことも、心身両面において貴重な経験となった。
2020年、「侍ジャパン」は母国で絶好の舞台を迎える。ソウル五輪では成し得なかったセンターポールに日の丸を掲げる夢を実現し、偉大な先輩たちに吉報を届けられるだろうか。