冬季オリンピックを振り返る : 空前絶後のアルペンスキーヤー

今日(11月17日)は、トニー・ザイラーの誕生日。弱冠21歳にして、アルペンスキー全種目で金メダルを獲得するという、前人未到の記録を打ち立てたオーストリア人スキーヤーの生誕を記念して、彼の輝かしい生涯を振り返る

文: Michele Weiss

今から65年も前の冬のオリンピック、コルティナダンペッツォ1956において、アルペンスキーの3種目すべてで金メダルを獲得したのが、当時21歳のアントン(トニー)・ザイラー(オーストリア)だ。

ザイラーのキャリアは、アルペンスキーヤーだけにとどまらない。この前人未到のオリンピック記録を打ち立ててすぐに、歌手そして俳優へと転身し、ジュームズ・ボンドでお馴染みの人気映画シリーズ「007」に出演。劇中では素晴らしいスキーテクニックを披露している。手に汗を握る雪山での決死のアクションシーンは、今見ても圧巻だ。

そして、今日(11月17日)は、ザイラーの誕生日である。彼の生誕を記念して、オリンピック選手から歌手・俳優へと、様々な分野で活躍したザイラーの型破りで輝かしい人生を振り返る。

アントン(トニー)・ザイラー

オリンピアンから俳優へ

1935年11月17日、オーストリア・チロル州キッツビュールに生まれたザイラーは、幼い頃からスキーの非凡な才能を発揮し、初出場のコルティナダンペッツォ1956のアルペンスキーで、ダウンヒル、スラローム、ジャイアントスラロームの、当時行なわれていた3種目すべてで金メダルを獲得した。この快挙は、ザイラーの他に、グルノーブル1968で同じく3冠を果たしたジャン=クロード・キリー(フランス)にしか、達成されていない。

そんなオリンピック史上初の記録を打ち立て、数年のシーズンを経験したのち、ザイラーはスキーの世界から引退してしまう。母国・オーストリアでは、才能あるスキーヤーを失ってしまうということで、多くの人が彼の引退を惜しんでいたのだが、まもなくすぐ、ザイラーは歌手そして俳優となって、表舞台に登場するのだった。

特に、人々の心に刻まれているのが、今も人気を誇る映画シリーズ「007」の第6作「女王陛下の007」(1969年公開)で、ジェームズ・ボンド役を演じた主演のジョージ・レーゼンビーとともに、新雪の冬山で撮影された緊迫感溢れるアクションシーンは必見だ。この他にも、ザイラーは数々の銀幕に出演し、マルチな才能で母国のみならず世界の人々を魅了した。

希有なスキーヤー

コルティナダンペッツォ1956の報告書を読み返してみると、ザイラーというスキーヤーが当時においても希有だったことがよくわかる。

「コルティナ大会でザイラーが成し遂げた3冠は、未来永劫語り継がれることだろう。なぜなら、計算通りの完璧な偶然を招き寄せ、またその時の彼のフィジカルも、テクニックも、才智も最高潮だったのだから」

世界のヒーローの誕生

コルティナダンペッツォ1956は、様々な意味で歴史的な大会となった。7回目を数える冬のオリンピックで、当時好景気だったイタリアでの初開催の冬季オリンピック、そして、初めて生中継された冬季オリンピックでもあったので、世界中の何百万人もの人が、ザイラーの快挙を、テレビで目撃していたのだ。

ザイラーは、コルティナという場所をオリンピックの前から「ホーム」に感じていた。というのも、国際大会で初めて優勝したのがコルティナの雪山だったのだ。

その馴染みのあるコース上で、1956年オリンピック最初の種目として行なわれたのがダウンヒルだった。ザイラーは2番手より3.5秒も早いタイムでゴールして優勝を決める。つづくジャイアントスラロームでは、そのタイムをさらに上回って、6秒もの大差をつけて、2度目の優勝。そして、おそらく最も歴史的な記録といえるのが、寝坊してしまい、予定時刻に遅れてスタートゲートに現れたにもかかわらず、優勝したスラロームであろう。ちなみに、この時ザイラーに破れて銀メダルとなったのが、日本の猪谷千春である。

こうして、弱冠21歳のザイラーは、世界の想像を遥かに超える記録を残して、オリンピックのヒーローとして語り継がれることとなった。

人生の黄昏時

コルティナダンペッツォ1956において、公式プログラムとしては実施されていないのだが、アルペンコンバインドでもザイラーは優勝している。また、2年後の1958年に母国で開催された世界選手権(バート・ガスタイン)でも、ザイラーは金メダル3個と銀メダル1個を獲得し、その圧倒的な強さを見せつけた。しかし、彼のアルペンスキーヤーとしてのキャリアはここで幕を閉じる。

前述の通り、持ち前のスキーテクニックを活かした雪山での撮影など、数多くの映画作品に出演し、また歌手としても活躍して、ザイラーはアルペンスキーからショービジネスの世界で、その名を馳せるようになる。それだけにとどまらず、オーストリアのナショナルチームの監督となって、後進の育成に情熱を注ぎ、フランツ・クラマーヘルマン・マイヤーなど、オーストリアの新たなオリンピックメダリストの輩出に尽力した。また、生まれ故郷のキッツビュールで実施される、世界のスキーヤーたち憧れの、由緒あるワールカップ・ハーネンカム大会の代表も務めた。

1999年、彼のオリンピックムーブメントへの大きな貢献が讃えられ、ザイラーにオリンピックオーダーが贈られた。

それから10年後の2009年8月24日、ザイラーは脳腫瘍のため永眠する。

ザイラーの葬送は、彼のスキーキャリアの原点といえるハーネンカムのコースの麓で行なわれ、多くの人が参列し、偉大なるオーストリアのスターの死を悼んだ。

トニー・ザイラーの葬儀に参列するヘルマン・ハイヤー
写真: 2009 Getty Images

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