ケニアを代表するランナー、エリウド・キプチョゲは何ごとも意図的に行動するアスリート。人並みならぬ努力と高い集中力に支えられ、シンプルだが全体を見据えたアプローチで、2大会連続のオリンピック王者となり世界最速のランナーとなった。
キプチョゲのトレーニング量は週あたり220kmにも及ぶ。しかし、その多くはイージーなものばかりで、ハードに追い込むのは全体のおよそ15~20パーセントに過ぎない。毎日1回もしくは2回行うトレーニングは、スピードを抑えた快適なペースのスローランと、最小限の高強度ラントレーニングで構成されている。彼は、オーバートレーニングやケガに細心の注意を払っており、自らを追い込み過ぎることは決してない。
百戦錬磨のキプチョゲだが、そんな彼は長いキャリアの中で初めてボストンマラソンを走る。4月17日に行われるこの大会を前に、彼が行っているトレーニングとはどういったものなのか。彼はいかにして最速になり得たのか。以下、見ていきたい。
キプチョゲの速くなるためのトレーニング法:イージー&スローラン
ケニア南西部の高地、カプタガトのトレーニングキャンプでは、コーチのパトリック・サング(バルセロナ1992オリンピック、陸上3000m障害で銀メダル)に指導を受けるキプチョゲは忠実にトレーニングプログラムをこなす。それは、ただ繰り返すだけの退屈なものかもしれない。しかし、この単調なトレーニング習慣こそが、彼の偉業の核となるものであり、これまでに出場した17回のマラソンで15回もの優勝をもたらしたのだ。
多くのエリートランナーと同じように、キプチョゲは、トレーニングでかなりの走行距離をこなす。しかし、そのほとんどはゆっくりとしたペースのスローラン。ファルトレク(緩急走)やトラックでのスピード練習も行うが、週に2回だけに限られている。彼のトレーニングプログラムには、常に余裕があり、高強度のトレーニングばかりを次から次と繰り返し行うものでは決してない。
サングがコーチするキプチョゲと彼のチームメイトは、「80:20トレーニング」を実行し、数々の好成績を挙げた。
最速ランナーのトレーニングメソッド「80:20トレーニング」とは?
「パレートの法則」をご存知だろうか。これは、1896年ごろ、イタリアの経済学者、ヴィルフレド・パレートが「成果全体の80パーセントは、費やした時間の20パーセントが生み出している」という現象を見いだし提唱した概念。「80:20の法則」とも呼ばれた。1941年、ルーマニア生まれの米国の技術者、ジョセフ・M・ジュランによって、「故障品の80%は、全部品の20%に起因する」として、製品の品質管理に応用されている。
この法則をマラソントレーニングに当てはめてみると、「トレーニング成果全体の80パーセントは、トレーニングに費やした時間の20パーセントに大きく依存する」となる。つまり、トレーニング全体の20パーセントを質重視の高強度トレーニングで行い、残りの80パーセントをイージートレーニングで構成することによって、最大限のトレーニング成果を得られるというものだ。
エリウド・キプチョゲのトレーニングの原則
より速くより強い、バランスの取れたランナーになるために、キプチョゲは低強度でのランを長時間行っていることが明らかにされた。
2022年、ノルウェーの研究者らがレビュー論文「The Training Characteristics of World-Class Distance Runners: An Integration of Scientific Literature and Results-Proven Practice」を発表したが、その中でキプチョゲら59名のオリンピックおよびワールドクラスのランナーのトレーニングメソッドを分析している。
彼らの研究では、キプチョゲが行う「80:20の法則」に従ったトレーニングが、いかに成果を生み出したかについて述べられている。
キプチョゲは、週に200~220 kmのトレーニング量をこなすが、この4度のオリンピックメダリストのトレーニングはシンプルかつ興味深いものだ。ノルウェーの研究によると、キプチョゲのトレーニングは次の3つの強度ゾーンに大きく分けられる。
- 低強度ゾーン(リラックス~イージー):全体の82~84パーセント
- 中強度ゾーン(モデレート):全体の9~10パーセント
- 高強度ゾーン(ハード):全体の7~8パーセント
これを見ると、キプチョゲは速くなるために、意図的に「ゆっくり走っている」と言えるかもしれない。彼の低強度ゾーンのイージーランでは、キロ4分30秒から5分で走ることが多い。このペースのランを週に6回、各8~12kmの距離を走る。
このイージーランによって、高強度トレーニングからの疲労回復を促すことができる。キプチョゲの高強度ゾーンのトレーニングは、火曜日のトラックでのインターバルトレーニングと、土曜日のファルトレクトレーニングの週2回行われるが、それ以外の曜日は、基本、低強度ゾーンのトレーニングばかりになる。
「高強度のトレーニングは、体に過酷さを教え込み、効率よく走る方法を身につけるのに役立っている」と、キプチョゲはインスタグラムでコメントしている。
火曜日のハードトレーニングの後、キプチョゲは強度を落とし、木曜日に30kmあるいは40kmのロング走(低強度ゾーン~中強度ゾーン)のどちらかを隔週で交互に行う。そして、土曜日には、再び、ファルトレクによるスピードトレーニングを行っている。
イージーペースでのロング走の繰り返しは、ランニング効率を高める。また、高強度トレーニングに備えるために十分な休息を得ることができる。一方で、高強度トレーニングは、有酸素エンジンをより大きく、よりパワフルにしてくれる。
「ロング走。私にとって非常に重要だ。ロング走を行えば行うほど、心と体が長時間のランにうまく反応するようになる」とキプチョゲは話す(キプチョゲが所属するNNランニングチームのYoutube動画より)。
「大切なことは交互に行うこと。前回が登りの多いコースでのトレーニングだったなら、次の回は比較的抑えたコースを走るようにしている」
このようなバランスの取れたシンプルなトレーニングは、2003年世界クロスカントリー選手権ジュニアレース優勝から始まったこれまでのキャリアを通して、キプチョゲをあらゆる故障から守ってきた。
4月17日、ボストンマラソンにデビューする現世界記録保持者キプチョゲ。マラソントレーニングに革命をもたらした彼のメソッドは、ボストンマラソンでどんな記録を打ち立てるのか。その瞬間を私たちは目撃することになるだろう。