毎年開催される世界で最も歴史のあるボストンマラソン。世界中のランナーに愛され、スポーツ史上、最も記憶に残る瞬間を生み出してきた。
アテネ1896オリンピックにおけるマラソン競技に刺激され、1897年に初めて開催されたボストンマラソン。毎年4月の第3月曜日、アメリカ合衆国の愛国者の日(Patriots’ Day)に行われ、2023年は4月17日に127回目が開催される。2023年のボストンマラソンは、さらにエキサイティングなレースとなるに違いない。男子マラソン世界記録保持者、2大会連続オリンピック金メダルのエリウド・キプチョゲ(ケニア)がボストンに初登場するからだ。
長年にわたり、歴史に残るレースが数多く目撃されてきた ボストンマラソン。それらは、単にボストンマラソンだけのものではなく、世界のマラソンの歴史そのものである。
ボストン史上最多勝利を誇るランナーや大会史上初めての女子優勝者、世界をあっと言わせた数々のレースなど、厳選された5つのベストレースを紹介しよう。
ボストンマラソン・ベストレース5選
1930年:クラレンス・デマー、7度目の優勝。ボストンマラソン最多優勝記録更新
ボストンマラソンの歴史の中で最も叙勲を受けたランナーは、「デマラソン」のニックネームで親しまれたクラレンス・デマー(米国)に他ならない。初めて出場した1910年のボストンマラソン(この時は準優勝)の後、レースドクターから心雑音が見つかったためランニングをあきらめるようにと勧告を受けていた。それにもかかわらず出場した翌年のボストンマラソンでは初優勝を遂げている。
その後、しばらくボストンマラソンに出場することがなかったデマーだったが、11年後の1922年、再びボストンに戻り、そこから3連勝(1922年~1924年)を挙げるという快挙を成し遂げた。1924年には、パリオリンピックにも出場し銅メダルを獲得。さらに、デマーの快挙は続き、1927年、1928年と連続優勝。そして、最後となった1930年には2時間34分48秒で完走し、7度目の優勝を飾った。
ボストンマラソンで5勝以上を挙げたランナーは、デマラソン以外には存在しない。彼の偉業を超えるランナーがこの先現れるのだろうか。こればかりは誰にもわからない。
1972年:ニーナ・クシック、ボストンマラソンで初めての公式女子優勝者となる
1966年、ロベルタ・ギブ(通称ボビ・ギブ)はボストンマラソンを女性で初めて完走した。当時、ボストンマラソンは男子のみが参加でき、彼女は参加申込書を提出していたものの、それを大会側が拒絶した。このため、彼女は飛び入りで参加を強行。非公認ながら完走を果たしている。翌年、キャサリン・スウィッツァー(米国)は「公式に参加登録された選手」として出場した。しかし、これは名前をイニシャルで記入して参加申し込みを行い、大会側が男子とみなし参加が認められたためであった(レース中に大会側から妨害を受けるが完走)。
これらの女性は、2名とも非公式ながら42.195kmを完走し、それまで「女性はマラソンを走ることはできない」と信じられてきたことが迷信であったと証明した。しかし、公式に女子の参加が認められたのは1972年からのことであった。
1972年のボストンマラソンには8名の女性ランナーが出場している。大会史上初めての公式女子完走者として歴史に名を刻んだ。
中でも、優勝したニーナ・クシック(米国)は女性で初めての公式完走者となった。完走タイムは3時間10分26秒。彼女は、その翌年のニューヨークシティマラソンで、女子マラソン史上2人目となるサブ3(3時間未満で完走)を達成して優勝している。
今日、ボストンマラソンでは毎年、何千人もの女性ランナーが参加し完走している。現在の女子コースレコードは、2014年にビズネシュ・デバ(エチオピア)が出した2時間19分59秒。このタイムは、1972年のクシックより50分以上も早いものだった。とはいえ、デバの偉大な記録も、先駆者たちが女子マラソンの道を切り開いてきたからこそ成し遂げられたと言ってもよいかもしれない。
1983年:ジョーン・ベノイト、前日出たばかりの記録を打ち破り、ボストンマラソンで女子マラソン世界記録更新
1983年のボストンマラソンを走ったジョーン・ベノイト(米国)は、女子マラソンの世界新記録を出して正真正銘の先駆者となっただけでなく、計り知れない能力を世界に知らしめた。翌年の1984年、オリンピック史上初めて実施された女子マラソンで初代金メダリストになったのだ。
1983年4月18日のボストンマラソンの前日、ノルウェーのレジェンドランナー、グレテ・ワイツは、ロンドンマラソンにおいて、その時点での世界新記録(2時間25分29秒)を出していた。
しかし、ベノイトはボストンで序盤から記録狙いで攻め続けた。誰もそのペースを維持できると思わなかったが、10マイル(16km)地点でのタイム、51分38秒と、中間地点でのタイム、1時間8分23秒はいずれもアメリカ国内新記録。
後半に待ち構える「心臓破りの坂」も難なくこなし、ベノイトは2時間22分43秒でフィニッシュテープを切り、ワイツがわずか前日に出したばかりの世界記録を3分近く更新して優勝を飾った。
2011年:ジョフリー・ムタイ、コースレコード樹立。この記録は今日も破られていない
ボストンマラソンは、ワールドマラソンメジャーズ6大会の中で最も難しいコースと言われる。しかし、ケニアのジョフリー・ムタイは、その噂を物ともせず、2011年に驚異的なコースレコードで優勝。記録は2時間3分2秒。これは、当時の男子マラソン世界最高記録となった。
ボストンマラソンは、公認コース条件を満たしていないため、ムタイのタイムは公認記録としては認められなかった。しかし、ムタイはその日、当時の男子マラソン世界記録を3分上回るペースで走り切った。しかも、ボストンではペースメーカーによる先導も認められていなかったため、ムタイは自分の力を信じ、前だけを見てこの快挙を成し遂げた。
仮に、ペースメーカーが認められていたとしたら、ムタイと同国のモーゼス・モソップがそれを喜んで引き受けただろう。モソップは、初マラソンながら、ムタイとレース中、終始、接戦を繰り広げ、ムタイからわずか4秒遅れの2位だった。このタイムも非公認ながら当時の男子マラソン世界記録を上回るタイムだった。
2011年に樹立されたムタイのコースレコードはいまだに破られていない。しかし、2023年4月17日、現世界記録保持者であるキプチョゲが、ボストンで12年の歴史を持つこの偉大なる記録に挑むことになる。
2014年:メブ・ケフレジギ、爆弾テロ事件後のボストンマラソンで優勝
2023年ボストンマラソンは、フィニッシュエリア付近で3名の犠牲者を出したあの忌まわしい爆弾テロ事件からちょうど10年の節目のレースになる。
2014年は、「ボストン・ストロング(ボストンは強い)」と書かれたサインを掲げTシャツを着た多くの観客がボストンの通りを埋め尽くした。
メブ・ケフレジギ(米国)は、爆弾テロ事件による4名の犠牲者(事件後、さらに警察官1名が容疑者により射殺された )の名前を自分のナンバーカードに手書きで書き込んで走った。多くの人の予想を覆し、アメリカ人選手としては1983年以来31年ぶりとなる優勝を果たした。
「フィニッシュが近づくにつれて、少しナーバスな気持ちになりました」と、ケフレジギは勝利したレースを振り返る。「特に最後の3キロは過酷でしたが、『誰かを守りたい、何かを守りたい』と祈りながら走り続けました。その祈りは、特に今年のレースではとても大切なことだったように思います。そして、『ボストンは強い、メブ(自分)も強い!』と信じ、最後まで走ることができました」。