一口に自転車競技とは言っても、2020年東京オリンピックでは4つの全く異なる種目が開催される。それぞれに使用される自転車も、用意されるコースもまるで違う。タイヤ幅の細い、変速機付きの、極めて軽量なロードバイクに乗って、一般の道路で壮大な勝負を繰り広げるスポーツが「ロード」。五輪では、全員が一斉にスタートする「ロードレース」と1人ずつが走りタイムで競う「個人タイムトライアル」の2種目が行われる。
競技の概要
19世紀初頭にドイツで発明された自転車は、産業革命の進展に伴い、急速な進歩を遂げた。
1868年に史上初の自転車レースがフランスで開催されると、単なる「移動手段」としてだけでなく、「スポーツ」としての人気も爆発的に拡大。第1回近代オリンピックの1896年アテネ大会で、早くも男子個人ロードレースが争われた。
その後は五輪種目から一旦外れたり、現行とは異なる形式が取り入れられたりしたが、1936年大会でロードレースは完全復活。1984年には女子部門も創設された。
また以前はアマチュアだけにしか出場資格が与えられていなかったが、1996年大会からはプロにも門戸が開かれた。ツール・ド・フランス等で活躍するトップ選手たちが、積極的に金色の夢を追いかけるようになり、レースのレベルは格段に向上した。
1996年以降は個人タイムトライアルも種目に加わった。2020年東京大会では、男女ともロードレースと個人タイムトライアルが行われる。
日本の景色がレースを彩る……競技の見どころ
ロードレースに競技場はない。コースは「作る」のではなく、既存の道路を拝借する。選手は道という道を走る。大都会の幹線道路から、風光明媚な田舎道まで。じぐざぐ道も、急な峠道も、時には未舗装路も。
私達が日常何気なく使用しているあらゆる道が、そのままレース会場に早変わりする。おのずと大会ごとに、コースの特色やレース展開は大きく異なる。たとえば2012年のロンドンのコースは、小さな坂道が繰り返し登場したものの、どちらかと言えば平坦路。
一方、2016年リオ大会には終盤に厳しく長い坂道が3回組み込まれた。登りの得意な選手に有利とされたが、勝負を分けたのは、むしろ急な下り坂だった。
注目の2020年東京大会は、東京・武蔵野の森公園からスタートする。そこから神奈川と山梨を通過して、静岡の富士スピードウェイでフィニッシュ。男子244キロメートル、女子147キロメートルという極めて長距離の戦いだ。
特に富士山麓をめぐる男子ロードレースは、本番前にして、五輪史上屈指の難関コースとの呼び声が高い。行く手には5つの山越えが待ち構える。スタート地点の海抜47メートルから、最高で標高1451メートル地点までよじ登らねばならない。スタートからフィニッシュまで選手たちが登る標高差をすべて足すと、なんと富士山よりも高い標高4865メートルに達する。
しかも走行距離が200キロメートルを過ぎてから、恐ろしく急勾配の三国峠へと挑みかからねばならない。もちろんすべての難関を、選手たちは、自らの肉体と自転車で乗り越える。選手たちが6時間近くもペダルを回し続ける間、テレビ観戦する側には、コース周辺の景色を(再)発見する最高の機会がもたらされる。
2008年北京大会では万里の長城がたっぷり空撮されたし、2012年はバッキンガム宮殿が、2016年はイパネマやコパカバーナなど有名なビーチリゾートが、見る者の目を楽しませてくれた。今回はユネスコ世界遺産に登録された日本最高峰の富士山が、その崇高なる姿を世界中に披露する。
“オール・フォー・ワン”で成り立つ独特な競技のルール
ロードレースの出場定員は男子130人、女子67人。その出走者全員が、スタートラインから一斉に走り出す。ただし男子244キロメートル、女子147キロメートルのうち、最初の10キロメートルはいわゆる助走区間。ゆっくりと走り出した選手は、10キロメートル地点の本スタート地点でフラッグが振られた瞬間から、本気の戦いへと飛び込む。
勝負を決めるのは、単純にフィニッシュラインの通過順だ。おそらく初心者に馴染みにくいのは、マラソンとは違って、個人戦ではないこと。一方で駅伝のように、チーム単位で成績が付くわけでもない。自転車ロードレースはあくまで団体戦でありながら、勝者として讃えられるのは、ラインを一番に越えた1人だけ。
そのたった1人を勝たせるために、その他のチームメイトたちは仕事に励む。最も大切な任務は、自転車にとって最大の敵である風からエースを守ること。時にはペースメーカーとなり、時には攻撃の拠点ともなる。エースがパンクやチェーントラブルに見舞われたら、自らの自転車を差し出す。
時間の長いレースでは、走行中に食事やトイレも済ませるため、そのサポートも大切な作業だ。つまり忠実で有能なチームメイトを数多く揃えたエースこそが、勝負のかかる最終局面で有利となる。
しかし、五輪の場合、各国に許される出場人数は異なる。2019年10月の国別ランキングに従って、1~5人の出場枠が配分される、強豪国のエースは4人の補佐役を有し、弱小国のエースは、たった1人で日本に乗り込まねばならない。
幸いにも日本には開催国枠として、男女ともに、最低でも2枠が保証されている。国別ランキングで日本が3枠以上の順位につけた場合は、それに応じた枠が与えられる。
一方で個人タイムトライアルは、完全なる個人戦だ。選手は1人ずつ、富士スピードウェイを中心に描かれた男子44.2キロメートル、女子22.1キロメートルのコースに、等間隔で走り出していく。全力疾走のタイムはコンマ100分の1まで計測比較され、最も速い記録を出した選手が金メダルに輝く。
東京オリンピックの出場権
個として強くなければ、もちろん勝つことは出来ない。しかし自転車ロードレースとは、「勝つのは個人」だが、あくまでも「団体戦」なのだ。チーム力こそが勝敗を直接的に左右する。チームメイトの数が多ければ、エースは最終局面まで体力を温存できる。有能な同僚のサポートがあれば、有利な展開にだって持ち込める。
プロチーム単位で参戦する一般的なレースの場合、すべてのチームに、同じ数の出場枠が与えられる。ところが国対抗で争われる世界選手権やオリンピックでは、各国チームの出走人数は必ずしも等しくはない。
1チームあたりの最大出場枠は5人。この枠を確保するためには、国際自転車競技連合(UCI)の定める、2019年10月22日付の国別ワールドランキングで、上位6カ国に入らねばならない。
その後、7位~50位の国に1~4枠が分配される。2020年東京オリンピックの自転車のロードレースで、武蔵野の森公園のスタートラインに並べるのは男子は最大130人、女子が67人。
日本には「開催国枠」として、男女ともに最低2人の枠が保証された。ランキング次第では、もちろん3枠以上を望むことも可能だ。ちなみに直近の52週の成績をもとにはじき出されるランキングによると、2019年4月の日本男子は37位。1枠ゾーンとなっている。
また、個人タイムトライアルに関しては、ロードレースの出場枠を得た国に参戦権が配分される。国別ランキング上位30カ国(女子15カ国)×各国1人、さらに2019年世界選手権個人タイムトライアルの順位に従って10カ国×各国1人、各国最大2人ずつがエントリーする。
海外レースの経験値を持つ代表を選び出す日本の選考基準
開催国として2枠を確保した日本は、2018年9月、東京オリンピックに向けた選手選考基準を発表した。日本自転車競技連盟によると、男子の選考対象期間は、2019年1月1日から2020年5月31日まで、女子は2019年6月1日から2020年5月31日まで。
男子に関してはこの期間内により多く「選考用」ポイントを獲得した2選手(枠によってはそれ以上)が、東京オリンピックの出場権を手にする。
UCIによりレースカテゴリーが定められ、その区分に従って上位成績者にはUCIポイントが与えられる。ただし今回、東京オリンピックの選考用に、日本連盟は独自のポイントシステムを採用した。
すべてのレースをAからHまでの8ランクに再区分し、それぞれのランクに0.2~10の係数を設定。そして日本の各選手が獲得したUCIポイントに、該当する係数がかけられ、選考用ポイントへと再計算される。
連盟の狙いはコースの特徴に合わせて、山の得意な選手を選出すること。本場ヨーロッパの難関レースを数多く転戦する選手にとっても、有利なシステムとなる。例えば係数10のAランクには、世界トップカテゴリーであるUCIワールドツアーの中でも、特に山や起伏を多く含むレースだけがリストアップされた。
つまりツール・ド・フランス総合60位でUCIポイント10Ptを獲得すれば、選考ポイントは100Ptに跳ね上がる。一方で全日本選手権ロードレースはGランク・係数0.5。日本人なら誰でも着順が狙える全日本選手権で、仮に優勝でUCIポイント100Ptを稼いだとしても、五輪選考用にはわずか50Ptにしかならない。
女子の選考基準はずばり順位のみ。UCIカテゴリーはもちろん、やはりレース地形や開催時期に合わせて、全レースは1~9ランクに区分された。さらに各ランク内でも、細かく優先順位がつけられた。
東京オリンピックを走る条件は、よりランクの高い、より優先順位の高いレースで、選考基準に定められた順位に入ること。最も優先順位が高いのは1ランク-Aの2019年秋の世界選手権で、選考基準は上位15位以内。2019年全日本選手権ロードレースは5ランクで、こちらは優勝だけが絶対条件だ。
自国開催ながら厳しいポジションの日本が目指す成績目標
世界のトッププロカテゴリーであるUCIワールドチームに所属し、本場ヨーロッパで長年活躍を続ける別府史之、新城幸也の2選手が、母国のオリンピック出場に最も近い場所にいる。
いわゆる第2ディヴィジョンであるUCIプロコンチネンタルチームで着実に実力を伸ばしつつある中根英登や、2019年からヨーロッパに活動の場を移した雨澤毅明の2人も、本人の得意な「山の多いコース」に特別な意欲を燃やす。
日本女子の中では、全日本選手権ロードレース3連覇中の與那嶺恵理が、頭一つ抜け出した存在といえる。UCI女子ワールドツアーで転戦を続け、2019年春にはレベルの高いワンデーレースでトップ15位以内に2度食い込んだ。
2016年リオ大会ではロードレース17位、個人タイムトライアル15位。東京オリンピックでは個人タイムトライアルでのメダル獲得を目標に掲げ、強化に励む。
ただ、残念ながらコースの特性からも、参加選手のレベルの高さからも、ロードレースでは男女ともに日本人のメダル獲得は難しい。別府は2012年ロンドン大会で22位、新城は2010年世界選手権で9位に食い込んだのが世界大会での最高成績。
日本の代表監督が「完走さえ厳しい」と形容するほどの難関コースではあるが、地の利を活かして、上位に食い込む走りを見せて欲しい。
過去のメダル獲得成績、過去記録やレジェンド選手の紹介
コース地形や距離が毎回異なる自転車ロードレースにおいて、フィニッシュタイムや走行時速などは、記録として大した意味を持たない。重要なのは、ひたすら順位のみ。
五輪で連覇を果たした選手はいまだかつて存在しない。2大会で表彰台に上がった経験を持つ者さえ、ロードレースでは女子はわずか3選手。男子に至っては、2000年銀メダル・2012年金メダルのアレクサンドル・ヴィノクロフただ1人だけだ。
対してストップウォッチとの孤独な戦いでは、個人と機材の最高のパフォーマンスを数大会連続で引き出せる選手も多い。個人タイムトライアルが行われた過去6大会中、女子ではレオンティエン・ファンモールセルが2連覇、クリスティン・アームストロングが2008年から3連覇を達成した。
また、男子のファビアン・カンチェッラーラは、2008年と2016年とで、人生2度の個人タイムトライアル五輪王者に君臨。賞賛すべきは2008年にロードレースでも銀メダルを獲得したこと。ちなみに上述のファンモールセルは、2000年大会でロードレース、個人タイムトライアル、さらにはトラック種目の個人追抜と3つのゴールドを手にしている!
それでもブラッドリー・ウィギンスを超えるレジェンドは存在しないだろう。五輪トラック種目で金3、銀1、銅1を積み重ねた後、2012年ツール・ド・フランスでは、英国人として史上初めての総合優勝を達成した。ツール閉幕の約1週間後には、ロンドンオリンピックオープニングセレモニーで、開会の鐘を鳴らすという大役さえ果たした。
驚くことに、その数日後に個人タイムトライアルで金メダルをさらい、さらに4年後にはトラックで新たな金メダルさえも加えた。生涯獲得メダルは通算8個。女王陛下からは「サー」の称号も与えられた。
注目の選手紹介
ランキング上位国が、数的有利を利用して、積極的にレースを動かしてくるはずだ。男子では中でも2018年ツールの山岳賞ジュリアン・アラフィリップ擁するフランスや、現役ロード世界王者アレハンドロ・バルベルデ率いるスペインが、戦いの主導権を握るだろう。
個人タイムトライアルは、オランダのトム・デュムランとオーストラリアのローハン・デニスの、新旧個人タイムトライアル世界王者対決に注目だ。
女子は五輪では2大会連続で金、毎秋行われる世界選手権でも2連覇中のオランダの牙城を、他がどう崩しにかかるか。3連覇アームストロングが引退・代表コーチに就任した女子タイムトライアルでは、4大会ぶりに新女王が誕生する。
毎回違うコースだからこそ、開催国の選手は本番コースが練習環境になるという地の利に恵まれる。男子は大ベテランの別府史之と新城幸也を、女子は国内無敵の與那嶺恵利を中心に、日本チームの健闘にも期待したい。