新城幸也は、『ツール・ド・フランス』『ジロ・デ・イタリア』『ブエルタ・ア・エスパーニャ』の3大ツールを11回完走。そして、世界選手権や『クラシック』と呼ばれる伝統のレースでも1桁順位を記録。日本の自転車ロードレース史上において、間違いなく最も世界の頂点に近づいた選手だ。
日本の自転車ロードレース史上、最も世界の頂点に近づいた選手
新城は2010年世界選手権のロードレースで、日本の男子エリート(年齢制限のないプロカテゴリー)としては史上初の、ひと桁台9位に飛び込んだ。『クラシック』と呼ばれる歴史も距離も長い特別なワンデーレースでは、2010年パリ~トゥールにおいて、やはり日本人として空前絶後の5位入賞。新城幸也こそ、日本の自転車ロードレース史上において、間違いなく最も世界の頂点に近づいた男子選手だと言える。
シーズン中はほぼヨーロッパを中心に転戦している。そのため6月末の全日本選手権に出走する機会は、それほど多くはない。それでもプロ入り前の2007年に続き、2013年に全日本ロードレース選手権を制覇。日本チャンピオンの証「日の丸ジャージ」を身にまとい、世界最高峰の自転車レース『ツール・ド・フランス』を走った。
そのツールでは、2009年夏に初出場し、別府史之と共に日本人として史上初めてツール完走を果たした。現在までにツールは通算7回出場・完走。ツールと同じく『グランツール』と称され、3週間かけて戦い抜く『ジロ・デ・イタリア』と『ブエルタ・ア・エスパーニャ』も、それぞれ2回ずつ走破している。2018年3月には、日本代表チームのエースとして、5日間の総合成績で争われる『ツール・ド・台湾』に出走。見事、総合優勝に輝いた。
高校での出会いが、ハンドボール少年をロードの世界へと導く
沖縄県の石垣島で生まれ育った新城幸也は、高校卒業時までハンドボールに打ち込んでいた。当時の夢はハンドボールを大学でも続け、体育の教師になること。
父親が地元自転車連盟のメンバーで、競技としてロードレースに打ち込んでいたおかげで、小さい頃から自転車競技には馴染んできた。小学5年生でロードバイクに初めて乗った。トライアスロンやヒルクライムレースなど、ハンドボールの傍ら、レース活動も続けてきた。
運命が大きく変わったのは、高校3年生での、ある出会いがきっかけだった。当時日本のトップ選手として活躍していた福島晋一が、沖縄を訪れ、地元サイクリストたちを伴って練習に出かけた時のこと。急な坂道で、福島は勢い良くペースを挙げた。そこに唯一食らいついて来たのが、新城少年だった。今でも「兄ちゃん」と呼ばれ、新城に慕われている福島は、すぐに「フランスに来て、自転車ロードレース選手にならないか」と声をかけた。2003年4月、新城は単身フランスへ飛んだ。大学受験に失敗し、将来について考え直し、自転車選手として生きていくことを決意したのだった。
自転車の本場で、自転車レース漬けの日々を送った新城は、着実に頭角を現していった。2005年にはU23ナショナルチームのメンバーに初めて選ばれた。翌2006年にはU23代表として初めての世界選手権に出場し、14位フィニッシュ。同カテゴリーにおける日本史上最高成績を記録した。
プロ入りへの弾みとなったのは、2006年『ツール・デュ・リムザン』で総合3位に食い込み、新人賞に輝いたこと。フランスの伝統レースで活躍した若き日本人に、仏ヴァンデ地方でチームを運営するジャンルネ・ベルノドーが目を留めた。同じリムザンで2008年に区間勝利を挙げ、再び総合3位の成績を収めると、一気に話は進んだ。2009年1月1日、ベルノドー率いる『Bボックスブイグテレコム』に入団。当時の世界トップカテゴリーであるUCIプロチームから、プロデビューを果たした。
プロ入り後は上述のように、日本人として、史上最高レベルの活躍を積み上げてきた。2016年にはイタリアの古豪『ランプレ』へ移籍。2017年からはUCIワールドチーム『バーレーン・メリダ』に籍を移し、世界トップレベルのレースを転戦する日々だ。
ロードレーサーが避けて通れない道:ケガとの戦い
自転車ロードレースには、常に落車や故障がついて回る。2019年でプロ11年目を迎えた新城幸也の長いキャリアもまた、数多くの痛みに彩られてきた。初めてのツール・ド・フランスは、2日目で区間5位に入る好スタートを切った。しかし雨の6日目に落車。笑顔が減り、報道陣の前に姿を見せなくなった。痛む脚を押して、なんとか3週間を走り切った。
2012年4月1日にはレース中に落車し、利き手である左手首を骨折。翌日すぐに手術すると、3週間で自転車に飛び乗った。なにしろ同年のオリンピック出場権を手に入れるためには、4月29日の全日本選手権で、どうしてもポイントを稼がねばならない。当日はハンドルが上手く握れない状態ながらも、新城は9位入賞。見事ロンドン行きの切符を手にした。
特に近年は故障が多い。2015年4月にはベルギーで左肩甲骨先端と左肋骨上部を骨折、2016年2月にはカタールで左大腿骨を骨折した。それでも必ず、長いリハビリの果てに、新城は劇的な復活を果たしてきた。特に2016年は、5月の『ツアー・オブ・ジャパン』で区間優勝を飾り、7月にはツール・ド・フランスを走り、もちろんリオオリンピックでは27位と激走を披露した。
2018年8月にはオランダのレースで落者に巻き込まれ、右肘を骨折。さらに2019年3月19日、タイでのトレーニングキャンプ中に、目の前に飛び出してきた犬を避けようと、大きくハンドルを切った。左肘頭骨骨折と左骨盤骨折で、全治3ヶ月。もう一度選手として輝くため、そして人生3度目のオリンピックに出場するため、新城は今も戦い続けている。
爆発的なパンチ力を発揮するスプリンター
小さな起伏で、爆発的なパンチ力を発揮する。たとえば30以上の短い急坂が組み込まれたクラシックレース『アムステル・ゴールドレース』では、2014年大会で10位に食い込んだ。これは日本自転車界のレベルを考えると、快挙と言える成績だ。
回復力の高さにも優れる。3週間かけて行われるグランツールを、過去11回走りきっていることからもお分かりいただけるだろう。しかも2012年と2013年は、いずれもツール・ド・フランスを走り切った約3週間後に『ツール・デュ・リムザン』で好成績を残している(2012年総合優勝、2013年総合2位)。「グランツールを走り終わった直後から1ヶ月間くらいが、実は一番良く脚が動く」と本人も認めるほど。しかも「時差ボケにはなったことがない」という。世界中を走り回る自転車ロードレース選手としては、最高の体質だ。たとえば2013年は6月23日に日本で全日本選手権を制し、29日からすぐに3週間のツール・ド・フランスへと走り出した。
つまり、2020年ツール・ド・フランスに出場した場合も、新城幸也にとっては無問題。代表監督からは「その場合は途中棄権して日本に戻ってこい」と声をかけられているが、本人は絶対完走と決めている。パリの最終日まで走り切り、その6日後に、人生最高の調子で東京オリンピックロードレースのスタートラインに立っている自信はある。
東京五輪は開催決定直後にメダル獲得を目指すことを宣言
東京でオリンピックが開催されると決まったその日から、「五輪でメダルを獲る」と高らかに宣言してきた。かつて所属チームのグランツールエースのために、体を改造した経験がある。本来は1~2㎞ほどの短い登りを得意としているが、2014年頃は、距離の長い登りを先頭で牽引できるほどにまで絞り込んだ。今回も史上屈指の山岳コースに向けて、最適なフィジカルを作り上げるに違いない。4年前のリオデジャネイロ大会では、日本代表のエースとして、自らのために尽くしてくれるチームメート1人を指名した。ただし今回の選考基準では、純粋にポイント合算だけで、全出場選手が決定する。一緒に選考を勝ち残った選手と、上手く協力しあうことで、244kmの長距離レースを生き残らねばならない。しかし、地元日本の大きな声援を得られれば、そうした壁を乗り越えるのは十分に可能だろう。新城の東京五輪メダル獲得には大きく期待できそうだ。