2004年のアテネ五輪女子柔道63キロ級で金メダルを獲得した谷本歩実(あゆみ)は、試合後、真っ先にコーチと抱擁を交わした。彼女の「師」とは、バルセロナ五輪男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦(としひこ)だ。豪快な一本背負いで輝かしい功績を残し、「平成の三四郎」と呼ばれた古賀の教えとは。
オリンピックに3度出場した「平成の三四郎」、2000年より指導者に
柔道界では、小柄ながら身体の大きな選手を投げ倒すことを得意とする選手は、人気小説の主人公の名を取り、「三四郎」という愛称がつけられる。
身長170センチと、海外選手に比べれば小柄な部類に入る古賀稔彦はかつて「平成の三四郎」として名を馳せ、世界を舞台に活躍した。佐賀県出身の古賀は小学生から柔道を始め、中学生になると、東京都世田谷区にあった中高一貫の柔道私塾「講道学舎」に入門。1975年に柔道家の横地治男によって創立された「講道学舎」は、全国から有望選手を集め、寄宿制の施設で心身を鍛え上げていた。やがて吉田秀彦や海老沼匡ら数多くの名選手を送り出した同塾で、古賀は「勝負の厳しさ」を学んだ。
中学、高校時代に数々の全国タイトルを手にした古賀は、日本体育大学進学後も成長を続け、1988年のソウル五輪でオリンピック初出場を果たす。この時は3回戦敗退に終わったが、4年後のバルセロナ五輪では選手団の主将を務め、金メダルを獲得。実は現地入り後の練習中に左ひざを負傷し、出場すら危ぶまれた状態だったが、強い精神力により痛みをモノともせず、金メダルを勝ち取った。その後、1996年のアトランタ五輪は階級を71キロ級から78キロ級に上げ、2大会連続の頂点を目指した。しかし、大会前の臀部の負傷の影響もあって満足な練習を積めず、決勝で惜しくも判定負けを喫して銀メダルに終わっている。
シドニー五輪代表を逃したこともあり、2000年4月に現役を引退し、指導者に転身。全日本女子柔道コーチを務めながら、2003年には自身の町道場「古賀塾」を開塾した。古賀は柔道の創始者である嘉納治五郎の教え、「精力善用」「自他共栄」を次世代の子どもたちへ継承すべく、指導に邁進していった。
地道に信頼関係を築いた愛弟子の谷本歩実がアテネで金
谷本歩実(あゆみ)との出会いは2001年のことだった。谷本が大学進学直前に日本代表に初選出された時、全日本女子柔道コーチであった古賀の指導を受け、以降、 二人三脚による歩みが始まった。
古賀は、右組みの谷本に対して左の一本背負いを教え込み、オリンピックで“必殺技”として繰り出すために、右の技との駆け引きを教え込んだ。直伝ということで、谷本の一本背負いは形も切れ味も古賀の現役時代によく似ていると言われた。だが、なかなか思うように結果を出せず、古賀は戸惑った。当時の指導法について、古賀はのちに「一方的なアドバイスになっていた」と振り返っている。選手は指導者の言うことを素直に聞くもの、と思い込んでいた古賀は、選手との信頼関係がなかなか築けないことに悩んだ。
そういった背景のなか、谷本は2003年に大阪で開催された世界選手権で開始から10秒足らずで投げられ3回戦敗退。大会1カ月前に肉離れを負った影響もあったとはいえ、屈辱を味わった。
一方的な指示ではなく、“聞き上手な先生”を目指すよう指導方針を変えた古賀は、辛抱強く谷本と向き合い続けた。歩き方などから選手の状態を見て取れるようになるまで、観察を続ける日々。選手の言い分を否定せずに悩みをすべて吐き出させ、また、選手の気持ちに寄り添うことも意識した。谷本が大阪世界選手権で敗れた際、「俺のほうがもっと悔しい」という言葉で谷本を激励した。
それでも谷本は敗戦のショックを拭うのに時間を要し、古賀から毎日のようにかかってくる電話に出ることもできなかった。谷本自身が古賀と向き合えたのは、講道館杯全日本柔道体重別選手権大会優勝後だった。試合後、真っ先に古賀に挨拶に行き、嬉しさから大泣きしたという。
古賀が指導者として悩み、もがきながらも丁寧に育て上げた谷本は、初出場のアテネ五輪で金メダルという形で恩返しを果たした。決勝終了直後、真っ先に古賀と抱擁を交わしたシーンは、日本のオリンピック史に残る名場面の一つとして語り継がれている。
史上初の「オール一本勝ち」でオリンピック連覇の快挙達成
アテネ五輪の後、谷本は世界中の選手たちから厳しいマークに遭い、腰痛の発症なども重なり、苦しい4年間を過ごした。ケガを押して無理に試合に出続けていたことから、北京五輪の直前の時期は、歩くことさえままならない状態だったという。自信を失った谷本に対し、古賀は辛抱強く寄り添い続け、アテネ五輪の時と同じように自分の柔道に集中できる心理状況を整えられるよう促した。
再起を果たした谷本は北京五輪でも金メダルを獲得し、見事に2連覇を達成してみせた。アテネ五輪、北京五輪を合わせて全9試合において、オール一本勝ち。これはオリンピック史上初の快挙であった。“一本勝ち”へのこだわりは、古賀の現役時代を想起させることから、谷本には「平成の女三四郎」の異名がついた。
2010年に現役を引退し、指導者の道を歩む谷本は、古賀と同じ信念を抱いている。それは、“一本柔道”を後世へと伝えていくこと。ただ試合に勝つことだけを目指すのではなく、“一本勝ち”を極めることで、おのずと結果もついてくる。それが日本の柔道に古くから伝わる“一本の美学”。谷本は負傷明けの北京五輪でも決して守りの姿勢は取らず、“一本”を狙い続けた結果、金メダルを手繰り寄せた。
2人の意志は今後も日本柔道界において受け継がれていくだろう。そして、新たに「三四郎」の名を継ぐ者の誕生が待たれる。