「褒めて育てる」小出義雄氏の教えで高橋尚子らがメダリストに【師と弟子の五輪】

“一番弟子”の有森裕子はオリンピックで2大会連続メダル

1 執筆者 オリンピックチャンネル編集部
東京国際女子マラソン・高橋尚子と小出義雄氏

2019年4月、80歳でこの世を去った小出義雄氏はマラソン指導者として早くから女子陸上長距離種目に着目し、日本人が飛躍する可能性を模索していた。そして有森裕子や高橋尚子、千葉真子といった教え子たちを世界の舞台で躍動させた。陸上界に多大な功績を残した名将の「褒めて育てる」選手育成方法とは。(写真は2003年の東京国際女子マラソン/時事)

合宿所に乗り込み弟子となった有森裕子

小出義雄氏を師事して最初に大輪を咲かせたのは有森裕子だ。

有森は日本体育大学時代の1988年、高校教師を辞めて実業団リクルートの陸上部監督に就任した小出氏に入部を希望する手紙を送りつけた。もっとも、有森は大学で目立った成績を残せていなかったこともあり、最初は断られたという。当時の有森の実力は、自身で「中学生のトップランナーにも及ばなかった」と振り返る程度。戦力として通用する見込みは薄いと見られていた。

だが、有森は一度断られてもめげず、合宿所に押しかけてまで師弟関係を築いてもらえるよう、直訴を続けた。すると小出氏は有森を受け入れることを決め、酸素の薄い高地での練習など厳しいメニューを課した。スピードの出せない有森に対してタイムを要求することはなく、「メニューは一日かけても全部こなせ」という指示を出した。課されたメニューは他の選手の倍以上だったというが、有森は「自分の性格に合った」教え方だったと振り返る。

気が強い有森は、小出氏と衝突することもしょっちゅうあった。練習メニューの意図に納得しないと取り組めないほど頑固だった有森に対し、小出氏は言葉を費やし説明を繰り返した。また、選手の脚の状態や表情をとにかくよく観察し、その時々で選手に必要な言葉を投げ掛ける。例えば、ケガが続いた有森に対しては、「『なんで?』と思わず、『せっかく』と思ってしっかり安め」と伝え、焦りが生じていた有森の気持ちを落ち着かせ、治療に専念させた。

小出氏のもとでマラソンに転向し、芽を伸ばした有森は、1992年のバルセロナ五輪で日本女子マラソン初の銀メダルを獲得。さらに4年後のアトランタ五輪でも銅メダルと2大会連続で表彰台に上り、日本女子マラソンの黄金期を切り拓いていった。

高橋尚子らのため自宅を担保に米国の合宿所購入

高橋尚子も小出氏の指導を受けるまでは無名の存在だった。

「止めるまでずっと走っている」と言われるほど練習の虫だった高橋のことを、小出氏は「有森以上になる」と見込み、徹底的にしごいた。小出氏が「褒めて伸ばす名将」として知れ渡ることとなったのは、高橋の指導法と成果によるものだ。高橋が「怒られると萎縮してしまうタイプ」だと見抜いた小出氏は、怒ることをやめ、ひたすらに褒めてやる気を引き出した。例えば高地トレーニングで高橋が弱音を吐いた時には、フォームや表情を褒め続けることで高橋の意識を変え、ポジティブに走れるよう促した。すると、高橋は富士山頂に匹敵するような高地を走っても、苦痛を訴えることはなくなったという。

1997年に小出氏がリクルートから積水化学へ移籍すると、高橋らもついていき、オリンピックをめざす日々が続いた。小出氏は高橋らに金メダルを取らせるため、高地トレーニングの拠点として、アメリカ合衆国コロラド州ボルダーに合宿所を購入。地下室もついた家で、自宅を担保にして購入したという。その価格は約7500万円とも約9000万円ともいわれている。

高橋と小出氏は、最初に臨んだマラソン大会の時から、レースの前に手紙のやり取りをすることが恒例となっており、手紙を通しても小出氏は高橋を励ます言葉を送っていた。多くの勇気を与えられた高橋は、2000年のシドニー五輪のマラソンで日本人女子陸上で初の金メダルを獲得。翌年のベルリンマラソンでは、女子で初めて2時間20分の壁を突破し、当時の世界記録となる2時間19分46秒でゴールした。小出氏との師弟関係は、2005年に高橋が独立するまで続いた。

地元の千葉には「小出義雄記念陸上競技場」

その他にも2人の教え子が世界の舞台でメダルを獲得している。

鈴木博美は1997年の世界陸上選手権アテネ大会で優勝。小出氏は彼女が市立船橋高校1年時の担任教師で、早くから才能を見いだしし、リクルート、積水化学時代まで指導を続けた。また、千葉真子は2001年から小出氏の指導を受け、2003年の世界陸上選手権パリ大会の女子マラソンで銅メダルを獲得した。1997年世界陸上選手権の女子1万メートル銅メダリストである千葉は、小出氏に師事した時、ケガが原因で不振に陥っており、引退も考えていた。しかし、小出氏のもとで見事に返り咲いた。小出氏は練習嫌いだった千葉を決して叱らず、モチベーションを高め、ともに練習に取り組み続けた。

小出氏は2019年4月24日、肺炎のため80歳で亡くなった。通夜には約1000人もの人々が参列したことからも、小出氏の日本陸上界への貢献や教え子たちから愛された人柄がうかがえる。葬儀で弔辞を述べた高橋は、「走る楽しさを伝えること。監督の教えを忘れることなく、胸に刻んで歩いていく」と誓った。

小出氏の出身地である千葉県佐倉市は2019年夏、同氏が2001年に設立した「佐倉アスリート倶楽部」が練習拠点に使っていた岩名運動公園陸上競技場の名称を「小出義雄記念陸上競技場」に変更し、名伯楽の功績を称えた。

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