ラグビーワールドカップ2019の熱狂は、松島幸太朗の稲妻のようなトライから始まった。ロシアとの開幕戦で日本代表史上初めてW杯でハットトリックを達成。日本をベスト8に導く活躍を挙げ、東京五輪の7人制への出場にも意欲を見せる彼のルーツは、ラグビーを国技とする南アフリカで過ごした日々にある。
1年間の南アフリカ留学で心身ともに成長
松島幸太朗は1993年2月26日、南アフリカのプレトリアで、ジンバブエ人の父と日本人の母の間に生まれた。
3歳の頃、一家で日本に移り住み、幼少期はサッカーやバレーボールに親しんだ。当時は「プロサッカー選手」を夢に描いていたが、練習がきつくなると逃げ出したりする息子の様子を見かねた母は、松島が12歳の時、父がジャーナリストの活動拠点としていた南アフリカへ1年間留学させることにした。
ここで松島は、南アフリカの国技であるラグビーと出合う。生まれ持った身体のバネや瞬発力、スピードを生かして大柄な選手の間をすり抜けていくのが楽しくて、ラグビーにのめり込んでいった。
南アフリカでともに暮らした父は、厳しくもあったが、ジャーナリストとしてアパルトヘイト(人種隔離政策)問題解決に向けて積極的に取り組む姿を松島は誇りに思っていた。しかし、松島が高校2年生の時、悲劇が襲った。父が急死したのだ。
死因は不明で、死後3日経って自宅アパートで発見された。現地のメディアは「ジャーナリスト謎の死」と報道したが、汚職問題を追及していたことで命を狙われた可能性も噂に上がった。
父急死のショックを乗り越え日本代表へ
尊敬する父を失った松島だったが、彼を救ったのはラグビーだった。名門、桐蔭学園高校に進学した松島は、高校選手権で優勝を経験。2010年度の全国高校大会準決勝で決めた100メートルの独走トライは、高校ラグビー史に残る伝説としてラグビーファンの間で語り継がれている。
高校卒業後は大学進学を考えていたが、監督に海外行きを勧められたことが人生を大きく左右する転機となった。NGOの研究員であった母の支援を受け、単身で南アフリカに渡ると、スーパーラグビーの強豪シャークスのアカデミーに加入した。
身長178センチの松島にとって、「フィジカルラグビー」と称される南アフリカでの日々は、レベルの差を痛感させられるものだった。だが、自身は前向きだった。ある取材で「レベルの高い選手のテクニックを盗んでは実行し、通用するかしないかを試していた」と振り返っている。さらにウェイトトレーニングで強化を図ると、3年目には20歳以下の南アフリカ代表から声がかかるまでに成長した。
2013年に帰国した松島は、サントリーサンゴリアスに加入し、その後、念願の日本代表入りを果たす。ワールドカップデビューとなった2015年大会で存在感を示すと、2019年、自国開催のW杯では、ロシアとの開幕戦でのハットトリックに始まり、ラグビーフィーバーの火付け役となった。
ベスト8に終わった自国開催のW杯を終えた松島は、4年後を見据え、「できればヨーロッパでプレーしたい」と抱負を口にし、来年の東京五輪の7人制ラグビーにも挑戦してみたいという。自身のレベルアップのためならどんな努力も惜しまない。松島幸太朗の向上心は、燃え尽きることはない。