【アスリートの原点】石川祐希:サッカーと野球を経てバレーボールへ。小学6年次は157センチと体格面で苦労

中央大学に在籍時からイタリアでプレー

1 執筆者 オリンピックチャンネル編集部
2014年、中央大学在籍時に日本代表に。以降、中心選手として活躍を続ける

高校時代には日本バレーボール史上初となる2年連続の高校3冠を達成。中央大学時代には日本代表に選出され、海外留学も経験した。エリート街道を歩んで来たようにも見える男子バレーボール界の絶対的エースだが、そのキャリアのすべてが順風満帆だったわけではない。そんな彼の原点とは――。

スパイクが決められない日々が続いた中学時代

最初に興味を持ったスポーツはサッカーだった。1995年12月11日、愛知県岡崎市に生まれた石川祐希が矢作南小学校に入学したのは2002年のこと。サッカーのワールドカップで日本中が盛り上がっていた時期にあたり、国際的なこのビッグイベントが小学1年生の好奇心に影響を与えた面も多分にあったのだろう。もっとも、地元にサッカークラブがなかったこともあって、石川少年は小学3年生から野球を始めた。

転機は翌年、小学4年生の時に訪れる。1学年上の姉が所属するバレーボール部の練習を見学。これをきっかけに、バレーボールを始めた。岡崎市を含む三河地区はバレーボールが盛んな地域で、矢作南小のバレーボール部は全国有数の強豪チームだった。石川も6年生の時に全国大会でベスト8という実績を残している。

2008年、矢作中学校に進学。当初は体格の面で苦労した。小学6年生の時点で157センチだった身長は、中学入学のタイミングでおよそ160センチ。上背のある対戦相手とのレベルの差は顕著で、思うようにスパイクが決められない日々が続いた。

それでも、腐ることなく努力を重ねた。スパイクのフォームの修正、コースを打ち分けられる技術の習得、そしてレシーブ能力の向上……。自ら課題を掲げ、さまざまなことに挑み、多くを吸収していった。持ち前の運動神経に磨きをかけたこの時期の地道な奮励は、石川を支える原点の一つと言っていいだろう。その後、2年生の時には170センチほど、3年生のころには180センチを超えるまで背を伸ばし、チームのエースへと成長していった。

「世界を知らないことには世界で勝てない」

中学卒業後は、愛知県豊明市にあるバレーボールの名門、星城高校に進んだ。バレーボール部の竹内裕幸監督は、基本的に夏ごろまで新入生を起用しない方針を持つが、石川には入学直後からレギュラー争いの環境を与えた。180センチを超える長身ながらも積極的にレシーブにいける姿勢が高く評価されたためだ。身長に悩んだ中学時代、技術を磨いた懸命の努力が実を結んだ。

高校2年生、3年生の時には全国高校総体、国民体育大会、全日本バレーボール高等学校選手権大会という3大タイトルを2年連続で制覇。中央大学時代には、全日本のメンバーに定着し、イタリア留学も経験した。大学卒業後はプロになることを宣言。2018年6月、イタリアのリーグ、セリエAのシエナへの入団を発表した。

2019年6月、東京都内で2019-20シーズンの所属チームに関する記者会見を行った。前シーズンまでシエナでプレーしていた石川は、東京五輪を目前に控えた今、新天地に同じくセリエAのパドバを選択した。

日本復帰も選択肢の一つだった。だが、石川はイタリアにとどまり、世界を相手に戦い続けることを決断した。すべては自身のレベルアップと東京五輪での上位進出のためだ。記者陣を前に、石川はこう話した。

「世界を経験することが何より重要だと思いますし、世界を知らないことには世界で勝てない。今以上にもっと世界のレベルを肌で感じて、その経験を東京五輪につなげたいと思います」

石川はあのころと同じく、イタリアで地道な努力を続けている。

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