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清水宏保:スピードスケートの金メダリストは今、介護施設やスポーツジムを営む経営者として活躍中【五輪の星たちのその後】

リハビリに着目し、介護施設やスポーツジムを経営

1 By オリンピックチャンネル編集部
長野五輪の500メートルで金メダルを獲得。スケートはぜんそくを治すために3歳の時に始めた

清水宏保(ひろやす)は日本スポーツ界における冬季オリンピックの英雄だ。スピードスケートの選手としてオリンピックに4度出場し、金銀銅のメダルを一枚ずつ勝ち取った。その栄光から一転、現役引退後は離婚や選挙での落選を経験し苦しい時間も過ごしたが、今はアスリートとしての経験を生かし、優秀なビジネスパーソンとして幅広く事業を展開している。

長野五輪の500メートルで金メダルを獲得。スケートはぜんそくを治すために3歳の時に始めた
長野五輪の500メートルで金メダルを獲得。スケートはぜんそくを治すために3歳の時に始めた

「余命半年」を宣告された父の熱血指導

1974年2月27日、北海道帯広市の清水家に4人きょうだいの末っ子が生まれた。宏保(ひろやす)と名付けられた少年は、やがて世界で活躍するスピードスケート選手となる。

1998年冬の長野オリンピックで金メダリストとなった清水宏保は、わずか3歳の時にスケートを始めている。雪深い土地で生まれたこともあったが、ぜんそくを治すことが大きな目的だった。ぜんそくの苦しみから抜け出すために、体を動かし肺を鍛える必要があった。父の均さんの勧めでスケート以外にも、サッカー、剣道、柔道、レスリング、バスケットに取り組んだという。

幸せな少年時代だったとは言い切れない。ぜんそくだけでなく、アトピーにも悩まされた。さらには、自身が小学2年生の時、建設会社を経営していた父の均さんが末期ガンを宣告される。頼もしい父が「余命半年」という厳しい現実を突きつけられた少年の心の痛みは計り知れない。

だが、「余命半年」の宣告から9年間、均さんはスピードスケートの基礎をたたき込んでくれた。文字どおり「熱血指導」と言えるもので、朝4時半に起きての朝練が日課。家の中でもスケート靴を履かされ、じゅうたんの上でトレーニングをさせられた。練習でも実際のレースでも目標が達成できなければ手をあげられることもあったという。「余命半年」という告知があったからこそ、父は一日一日、息子と真剣に向き合ったのだろう。父の夢の一つがインターハイ(全国高等学校総合体育大会)での優勝だった。

厳しい父だからこそ、不屈の精神が育まれたのは間違いない。清水自身は現役引退後、「当時は本当に嫌でした。ただ、あの時の父の指導がなければ、今の自分はないと思います」と話したことがある。高校はスピードスケートの名門として知られる白樺学園高等学校に進学。500メートルの高校新記録を更新し、全日本スプリントスピードスケート選手権大会では4位入賞を果たす。高校3年次にはインターハイの500メートルと1500メートルを制してみせた。息子との夢の実現を見届けた数日後、均さんはこの世を去った。

オリンピックには1994年のリレハンメル五輪から4大会連続で出場。世界距離別選手権でも多くのメダルを勝ち取っている
オリンピックには1994年のリレハンメル五輪から4大会連続で出場。世界距離別選手権でも多くのメダルを勝ち取っている

現役引退後は離婚や選挙での落選を経験

父と二人三脚でスピードスケートの実力を伸ばしてきた清水は日本大学1年次の1993年、イタリアで行われたワールドカップの500メートルで初出場初優勝を達成する。わずか18歳で世界トップクラスの仲間入りを果たした。

その後の経歴は華々しい。オリンピック初舞台は1994年のリレハンメル五輪。20歳での挑戦は500メートルで5位と上々の結果を残せた。続く1998年の長野五輪では圧巻のパフォーマンスを見せている。500メートルで金メダルを獲得。1回目は35秒76、2回目は35秒59と、ともにオリンピック新記録を出すレースで、日本スピードスケート界に初の五輪金メダルをもたらした。独自の“ロケットスタート”は清水の代名詞となり、1000メートルで銅メダルも勝ち取っている。

3度目の五輪となった2002年のソルトレークシティ五輪では500メートルで銀メダルを獲得。31歳で2006年のトリノ五輪にも出場し、4大会連続で出場している。そこからさらに4年レースを続け、5度目のオリンピック出場を狙ったものの、バンクーバー五輪行きのチケットは手に入れられず、2010年3月に現役引退を発表した。その間、世界距離別選手権で5つの金メダルと3つの銀メダル、2つの銅メダルを獲得するなど、輝かしい成績を収めている。

36歳で現役引退後は、会社を設立した。日本大学の大学院に進学したり、テレビ番組のゲストコメンテーターを務めたり、テレビドラマに出演したり、カフェ付きのペンションを開いてみたりと、積極的に新たな道を進んだ。金メダリストという肩書きに満足することなく、清水宏保という人間としての可能性を模索した。

もっとも、第二の人生は明るい話ばかりではなかった。2011年には離婚を経験。2年足らずの結婚生活に終止符を打った。翌2012年には鈴木宗男氏が率いる新党大地から衆院選の北海道一区に出馬したものの、落選の憂き目に遭っている。オリンピックの金メダリストという栄光から一転、収入もほとんどないという人生の下り坂を迎えていた。

3度目のオリンピックとなった2002年のソルトレークシティ五輪では銀メダルを獲得している(左端)
3度目のオリンピックとなった2002年のソルトレークシティ五輪では銀メダルを獲得している(左端)

介護予防や疼痛緩和を行うスポーツジムを経営

それでも、離婚や選挙での敗北に直面した当人は必要以上に落ち込まなかった。「余命半年」の父と過ごした時間や、亡き父の代わりに清水の競技生活を支えてくれた母・津江子さんから不屈の精神を学んだのだろう。「収入がゼロでも構わないじゃないか」と現状を前向きにとらえられたのは、新しい挑戦に手応えを感じていたからでもある。

引退から4年後の2013年、故郷の北海道で整骨院を立ち上げた。幼いころからぜんそくと向き合って来た経験、繰り返しけがに対峙してきたアスリート人生が、他の人たちを支える要素になるという思いがあった。建設会社を経営していた父の姿を見ていたこともあり、経営者としての仕事に面白みも感じた。

経営で数字を追う時間、あるいは目標から逆算する姿勢は、スピードスケート選手時代の感覚に似ていた。現役引退後に日本大学大学院で医療経営学修士を取得したこともあり、ビジネスパーソンとして辣腕を振るうのに時間はかからなかった。整骨院だけでなく、リハビリ特化型通所介護施設を開設。2015年には弘前大学大学院の社会医学講座の博士課程に進み、2016年には自身の経験を生かしたスポーツジムを開業した。2018年にはサービス付き高齢者向け住宅を新設している。

自らの会社名を冠した「TWO SEVEN BODY」というスポーツジムは、競合との差別化が図られており、いまや3店舗を展開する規模になっている。清水は健康維持やダイエットに加え、介護予防や疼痛緩和にも力を入れる体制を整えた。病院を退院後もリハビリが続けられる独自の環境で、人気を博している。医療の知識や介護経験を持つスタッフの存在も評判だ。そのスタッフたちもまた元アスリートで、彼らのセカンドキャリアの受け皿にもなっている。

アスリートとしての経験を生かしながら経営者として働くかたわら、ぜんそく疾患の啓発活動も長く続けてきた。オリンピックの金メダリストは今、健康産業を舞台にビジネスと社会貢献を結びつけて自らの存在価値を発揮している。

プロフィール

  • 清水宏保(しみず・ひろやす)
  • 元スピードスケート選手/株式会社two.seven 代表取締役
  • 生年月日:1974年2月27日
  • 出身地:北海道帯広市
  • 身長/体重:162センチ/70キロ
  • 出身校:栄小(北海道)→帯広第一中(北海道)→白樺学園高(北海道)→日本大(東京)→日本大学大学院(東京)→弘前大学大学院(青森)
  • オリンピックの経験:リレハンメル五輪 500メートル 5位/長野五輪 500メートル 金メダル、1000メートル 銅メダル/ソルトレークシティ五輪 500メートル 銀メダル/トリノ五輪 500メートル 18位
  • ツイッター(Twitter):清水 宏保 (@shimizuhiroyasu)
  • インスタグラム(Instagram):清水宏保 (@shimizu27hiroyasu)

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