2020年の東京五輪で、1964年に金メダルを獲得した「東洋の魔女」の再現を狙う女子バレーボールチームに彼女がいれば、と思う人も少なくないだろう。2012年のロンドン五輪で28年ぶりに銅メダルを獲得したチームのエース、木村沙織だ。ほんわかしているけど、とにかく勝負強く、オリンピックには4大会連続で出場した。「サオリン」という愛称で親しまれた名プレーヤーは、いかにしてオリンピックとかかわってきたのか。日本バレーボール界を長く追い、書籍『眠らずに走れ ―52人の名選手・名監督のバレーボール・ストーリーズ―』も記したライターがその歩みをたどる。
「オリンピックとワールドカップってどう違うんですか?」
「サオリン」というニックネームで親しまれた。元バレーボール全日本代表選手の木村沙織は、老若男女に人気がある稀有な選手だった。185センチの長身で、同性なら誰もがうらやむナイスバディに小さな童顔がちょこんとのっている。何度か取材したことがあるが、いつも「ほんわか」した雰囲気で対応してくれた。同行した男性編集者も、「185センチもあったら僕よりだいぶでかいですよ。威圧されそう……」などと言いつつ、取材後はコロリとファンになってしまう。
最初に取材したころは、まだ高校生だったこともあり、現在まで変わらない天然ボケなところがよく現れていた。2004年のアテネ五輪の抱負を聞かれて「オリンピックとワールドカップってどう違うんですか?」「沙織もオリンピック出られるんですか?」と聞き返して報道陣を爆笑させたこともある。
国民的人気が安定してからも、「ほんわか」した感じは変わらなかった。アスリートによっては、人気が出るまでは朴訥な対応をしてくれても、大成するとともに高飛車になったり、特定の記者に囲い込まれてしまったりして、他の記者のあしらいが冷たくなったりする場合もある。
でも、サオリンは本当にいつも変わらなかった。仲の良い特定の記者ももちろんいたのだが、それはそれとして、その他の記者にも誠実に対応してくれた。いつもニコニコして、「うーんうーん」と考えながら、饒舌ではないけれど、一生懸命答えてくれた。それこそ、彼女が男女を問わず、世代を問わず人気を持っていた大きな理由の一つだと思う。彼女の人の良さ、品の良さというものは、きっと広く伝わっていたはずだ。
2008年、北京五輪の直前のワールドグランプリマカオ大会を取材して、彼女が中国でも大人気なのを知って驚いた。大会の看板やポスターには、中国の選手と同じくらいの大きさのサオリンがニコニコと笑顔を見せていた。サオリンがコートに出てくると、観客は大歓声をあげて喜んでいた。卓球の福原愛ではないが、あどけない童顔とそれに見合わぬガッツあるプレーに、中国人にも人気が出る要素があったのだろう。
アテネ五輪出場に貢献した「スーパー高校生」
もちろん容貌や人の良さだけで人気になったのではなく、本質は彼女が平成最強の「東洋の魔女」であったことにある。彼女がいたから、2012年のロンドン五輪で女子バレーボールは28年ぶりの銅メダルを獲得することができた。
全日本代表は成徳学園高校(現在の下北沢成徳高等学校)に在学中の高校2年の夏。2003年にアジア選手権でセッターとして出場したのが初めてだ。その2カ月後、故障した選手の代わりに急遽呼ばれてのワールドカップで本格的なデビューを果たす。翌2004年のアテネ五輪の世界最終予選にも招集されると、日本の2大会ぶりの五輪出場に大きく貢献し、「スーパー高校生」として人気となった。ポジションはサーブレシーブを担うサイドアタッカーで、レフトもライトもこなす。
しかし、このころの木村はまだたくさんいる期待の新星の一人といった印象だった。このころの全日本女子バレーチームは、本当に個性豊かなスター軍団だったからだ。「メグカナ」で大ブレイクした栗原恵、大山加奈をはじめ、闘将の吉原知子、ちびっこエースからリベロに転身した大懸郁久美(おおがけ・いくみ)、「世界最小最強セッター」の竹下佳江。マッチョな雰囲気で女性に人気のあった佐々木みき。「シン」こと高橋みゆきもいた。サオリンはその中にあって、まだ「すばしっこいかわいい末っ子」くらいのイメージだった。本人にも、その意識はあったのではないだろうか。
ただ、アテネ五輪は柳本晶一監督が最終予選でつくり上げたチームのコンディションを維持できず、ベスト8に終わった。サオリン自身も、腰痛がひどくてほとんど出場できなかったほろ苦いオリンピックだ。「でも、決勝戦をみんなで見学したときに、あそこに立ちたいという思いは強く持ちました」とのちに語っている。たとえ思うように体が動かなかったとしても、参加した価値のあった大会だった。
2008年の北京五輪では主力として活躍する。当時「エース」は栗原恵とされてきたが、彼女を抜いて日本人ベストスコアをマークした。それでもまだサオリンは自分が「エース」になろうとは思っていなかった。それを変えたのが、8年続いた柳本体制から指揮権を引き継いだ眞鍋政義監督である。
「お前がエースなんや」。眞鍋監督は何度も繰り返した。「お前が良ければ日本は勝てるし、お前があかんかったら勝てへんのや」。サオリンは「ホントかな?」と半信半疑だったという。しかし、緻密なデータ分析からのちに「IDバレー」で有名になる眞鍋監督は、データを見せて、「な、お前の数字が良ければ勝ってる。悪い日は負けてるやろ」と粘り強く説得し、サオリンも「そうなんだ……」と自覚することになった。
ロンドン五輪では日本に28年ぶりのメダルをもたらす
2010年の世界選手権では銅メダルを獲得した。2011年のワールドカップでは、尻上がりに連勝して4位の成績を残した。そこで、自分たちも世界の強豪と渡り合えるんだという自信をつけた。
そして迎えたロンドン五輪。準々決勝戦の相手はオリンピックで一度も勝ったことのない中国。サオリンは、江畑幸子とともにチーム最高の33得点を決め、この強敵をフルセットで倒してみせた。優勝したブラジルには負けたものの、3位決定戦できっちり韓国に勝って、日本に28年ぶりのメダルをもたらした。
引退のときに聞いた「一番思い出に残っている試合」は、この中国戦だと言っていた。確かにあの中国戦は神がかっていた。銀座での凱旋パレードについては、「あんなにたくさんの人たちに喜んでもらえて、とてもうれしかったですね」とはにかんだ。
ロンドン五輪後はトルコリーグのクラブに1億円の年俸で移籍する。本当はこのシーズンを最後に引退を決めていたサオリンだったが、眞鍋監督の熱心な勧めによって、2016年のリオデジャネイロ五輪まで引き際を延期した。眞鍋監督はトルコに足を運んで直接懇願したのはもちろん、日本に帰国してからも何度もメールを送り、説得に成功した。
その決め手は「キャプテンをやってほしい」というもの。自分のバレー人生において初めてのキャプテンに、サオリンの心が動き、現役続行を決めた。だが、第2期眞鍋ジャパンはなかなか思うような成果があげられなかった。サオリンもキャプテンという役割を大切に思うあまりに、少々負担が増えていたようだ。
それでも、リオデジャネイロ五輪に出場することができたのは、紛れもなくサオリンのおかげである。出場権がかかったイタリア戦の前に、セッターの宮下遥に「私にボールを持ってきてね」と声をかけ、宮下は夢中でサオリンにボールを集めた。鬼神のような気迫で打ちまくったサオリンのおかげで2セットを獲得し、日本はなんとかリオデジャネイロ五輪に出場することができたのだ。あのとき、サオリンの渾身のプレーがなければ、リオ五輪行きはなかったと断言できる。こうして彼女は自分自身の手で、日本女子バレー史上初のオリンピック4大会連続出場者となった。
攻撃の軸だからこそサーブで狙われ続けた
サオリンは185センチの長身でありながら、レシーブもうまかった。これは日本人の体格やバレー環境では奇跡的なことだ。実のところ、彼女は子どものころはそれほど大柄ではなかった。中学入学のころに167センチ。普通大きな子がバレーをやると、指導者はレシーブを免除してしまう。だが、彼女はそうではなかったために、小学生のうちにレシーブ練習でみっちりしごかれ、基礎ができていたのである。中学入学後にぐんぐん背が伸び、今のサオリンとなった。
お茶の間では、サオリンがサーブで狙われるのを見て「この子はレシーブが下手だから狙われるんだ」と間違った印象を持った人も多いかもしれない。だが、そうではない。彼女が狙われるのは、彼女が攻撃の軸だからだ。サーブを受け続ければ負担も大きく、攻撃にも影響が出てくる。それを狙っての集中砲火だったのだ。しかし、北京五輪以降は、狙われても大崩れしなくなった。
スパイクもパワーが特にあるというわけではなかったが、勝負どころの「ここ1点」を決める力がとにかくすごかった。「え、こんなコースへ打つんだ!」というスパイクを軽々と決めてみせる。自分でレシーブを上げて、自分でスパイクをたたき込む。「これが日本のエースなんだ」と惚れ惚れした。
2017年、30歳で引退を決めた理由は「負けても悔しいという思いが薄れてきたから」。逆に言えば、それだけ負けず嫌いだったのだ。「コートに立つのは楽しかった。『今日の相手は強いから難しいね』と言われるほど、絶対奇跡を起こそうと強く常に思いました」と、さらりと語った。現役最後の公式戦となったV・プレミアリーグNEC戦では、会見でも涙は見せなかった。「泣かないと決めていたので」。いつも笑顔だった「平成最強の東洋の魔女」は、最後まで笑顔のままコートを去っていった。見事な去り際だったと惜しむしかない。
文=中西美雁(Mikari NAKANISHI)