リオデジャネイロ五輪で銀メダルを首にかけた後、原沢久喜(ひさよし)は一度、「燃え尽き症候群」に苦しんだ。しかし悲願となる表彰台の頂点をめざし、見事に復活を遂げて東京五輪代表の座をつかんだ。自身の集大成として臨む2021年夏の舞台を前に、その半生を振り返る。
遊びでも常に本気。負けん気の強さは群を抜く
原沢久喜(ひさよし)は1992年7月3日に山口県下関市で生まれた。フグの名産地で生まれたものの、実はフグが苦手だという。
初めて柔道と出合ったのは小学1年の時だ。やんちゃで負けず嫌い、遊びでも決して手を抜かない性格をそばで見ていた母の敏江さんは、そのエネルギーをスポーツにぶつけさせた方がいいと考えた。妹、そして現在は役者として活躍し、映画「コンフィデンスマンJP プリンセス編」にも出演している弟の原沢侑高(ゆたか)ともしょっちゅうケンカしていたようだが、女手一つで子どもたちを育て上げた母に見守られ、3人はたくましく成長していった。
7歳で門を叩いた大西道場スポーツ少年団では、柔道の基礎をたたき込まれた。当時はまだ体が小さく、相手に投げられることも多かったが、当時の指導者は、練習に真剣に打ち込む久喜少年の姿がいまだに目に焼きついていると明かしたことがある。どれだけ投げられても折れない心は、そのころから身についていた。
進学先の下関市立日新中学校には柔道部がなかった。そのため、スポーツ少年団の紹介を受け、近くの早鞆(はやとも)高校柔道部の練習に参加するようになり、そのまま同校に進学する。高校1年次の身長は170センチ台。当時は66キロ級の選手として活躍していたが、3年次には190センチ、体重107キロまで急成長を遂げた。
100キロ超級の選手の中では小柄な方だったが、それを逆手に取って他の選手より素早い動きで勝機を見いだしていく。高校3年次、2010年の全日本ジュニア柔道体重別選手権大会では決勝で敗れたものの準優勝を飾り、ついに全日本柔道連盟の強化指定選手に選ばれるまでになった。ちなみに、全日本ジュニア選手権の決勝で敗れたのは、今もライバルとして切磋琢磨する王子谷剛志(おうじたに・たけし)だった。
監督の熱意に動かされ日大柔道部へ
それでも、高校卒業とともに柔道をやめ、就職しようかとも考えていたという。その決断を思いとどまらせたのが、遠征先で出会った日本大学柔道部の金野潤監督だった。まだまだ粗削りで線も細かったが、天性の負けん気の強さと持ち前の柔軟性を評価された。自身の可能性にかけてくれた情熱に心を動かされた原沢は、程なく日大進学を決めた。
大学4年間は、寮と練習場が隣接している最高の環境で、柔道にひたすら没頭した。主将も務めた。決して多くを語るタイプのリーダーではなかったが、部員を背中で引っ張った。
大学2年次の講道館杯でシニア初優勝を飾ると、2014年には柔道グランプリ青島で国際柔道連盟によるワールド柔道ツアーを初制覇。2016年のリオデジャネイロ五輪の舞台ではテディ・リネール(フランス)との決勝戦の末、銀メダリストとなった。
しかし初のオリンピックで栄光をつかんだ後は、試練の連続だった。人生で初めてとなる試合中の失神を経験したり、大会では初戦敗退を喫したりと不調が続き「オーバートレーニング症候群」と診断された。リオデジャネイロ五輪にピークを持っていったせいで、心身ともにエネルギーが不足していた。
いつの間にか「守りの柔道」を選んでしまっていた自身を変えるため、2015年から在籍していた日本中央競馬会(JRA)を2018年4月に退社する。2019年4月からは三重県の百五銀行所属選手となり、見事パフォーマンスを取り戻した。同年8月の世界選手権で2位、その4ヵ月後にはワールドマスターズという国際大会で優勝を果たし、東京五輪行きの切符をつかんだ。
東京五輪が開催延期になってもやるべきことは変わらない。「本番でどうやって勝つかということだけに神経を注ぎたい」。ぶれない男の視線の先には表彰台の頂点しか映っていない。
選手プロフィール
- 原沢久喜(はらさわ・ひさよし)
- 柔道100キロ超級選手
- 生年月日:1992年7月3日
- 出身地:山口県下関市
- 身長/体重:191センチ/122キロ
- 出身校:日新中(山口)→早鞆高(山口)→日本大(東京)
- 所属:百五銀行
- オリンピックの経験:リオデジャネイロ五輪男子100キロ超級銀メダル
- ツイッター(Twitter):原沢久喜/Hisayoshi_Harasawa(@H_Harasawa)
- インスタグラム(Instagram):Harasawa Hisayoshi(@harasawa73)