Olympic Games Paris 1900
パリ1900
オリンピックについて
第2回大会
1900年のオリンピックは、万国博覧会の一環としてパリで開催されました。大会が5カ月間にわたったこと、さらに組織委員会がオリンピックとしての位置づけを強調しなかったため、多くのアスリートは実際にオリンピックに参加したことを知りませんでした
混成チームと女子の参加
テニス、サッカー、ポロ、セーリング、綱引の5競技では、複数の国の選手がチームを組んで競い合いました。また、近代オリンピックで初めて、女子選手が参加した大会となり、フランスのブロイとオニエがクロッケーに出場しました
記憶に残る王者
大会の主役を務めたのは、60m、110mハードル、200mハードル、走幅跳で優勝したアメリカのアルビン・クレンツレーン
**参加国・地域数:**24
**参加選手数:**997(女子22、男子975)
**競技種目数:**95
**ボランティア:**不明
**メディア:**不明
無名のチャンピオン
1900年8月26日、ボート競技舵手付きペア種目のオランダチームは舵手を入れ替える必要に迫られたため、代役としてフランス人の少年を抜擢し、見事に金メダルを獲得。この少年は表彰式に参加し、写真も残されているのですが、その後に行方がわからなくなっています。数年間におよぶ調査も実らず、少年の名前や年齢などは手がかりをつかめていません。1900年当時のパリの一般的な少年と比較してみると、おそらく推定年齢は7~12歳と考えられています
プリンスタインは決勝出場を拒否
走幅跳は予選を終え、マイヤー・プリンスタイン(アメリカ - 陸上競技)が首位に立つも、宗教的信念のため日曜に行われる決勝への参加を拒否しました。その決勝では、同じアメリカのアルビン・クレンツレーンがプリンスタインの記録を1cm上回って優勝。プリンスタインは気分を害し、クレンツレーンを殴ったと言われています
複数の国籍でチームを構成
ポロ、セーリング、陸上競技、テニスなどの競技では、さまざまな国の選手で構成されたチームがメダルを獲得しました
2会場でのセーリング
セーリングのレガッタはセーヌ川で行われたが、パリから20kmのムラン、そしてセーヌ川の河口にあるルアーブルの2カ所で実施されました。これは、特定のボートの喫水が大きく、川を航行できなかったことが原因でした。カテゴリーはボートのトン数(当時の基準)に応じて設定されています
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ブランド
ビジュアル・アイデンティティは、各オリンピックごとに作成されるブランド
メダル
オリーブ冠に始まり、メダルのデザインも年々進化メダル