マラソン界やファンにとって、今年は驚きとドラマに満ちあふれた1年ではなかっただろうか。
2023年、男女ともに新しい世界記録が生まれた。しかも、それらはマラソン経験のまだ浅いランナーたちによって成し遂げられた快挙だった。
世界記録を更新した若きケルビン・キプタム(ケニア)やティギスト・アセファ(エチオピア)のパフォーマンスによって、この壮大な距離に挑む人間の可能性に対する人々の認識が大きく変わった。男子では2時間、女子では2時間10分の壁を破る可能性が突如として現実味を帯びることとなった。
2023年はまた、シファン・ハッサン(オランダ)やヘレン・オビリ(ケニア)などのトラックのエリートランナーたちがマラソンへ戦いの舞台を移し、実際に42.195kmに及ぶ距離においても実力を証明した年であった。
2023年には、まだ歴史的な瞬間が訪れる可能性がある。高速コースで有名なスペインのバレンシアマラソンが12月3日(日)に開催されるからだ。とはいえ、2023年のワールドマラソンメジャーズ全レースが終了した今、ここでマラソンの歴史において特に記憶に残るこの1年をまずは振り返っておきたい。
東京マラソン(3月5日)
今年のワールドマラソンメジャーズは東京マラソンで幕を開け、自身2度目のマラソンとなったケニアのローズマリー・ワンジルが女子レースで勝利した。ワンジルのタイム、2時間16分28秒は女子マラソン世界歴代トップ10に入る好記録となり、2位のエチオピアのツェハイ・ゲメチュが2時間16分56秒でフィニッシュしたことで、2人は2時間17分を切った世界で7番目と8番目の女子選手となった。
男子レースでは、エチオピアのデソ・ゲルミサがフィニッシュライン直前のスプリントを制し2時間05分22秒で優勝した。同国のモハメド・エサは同タイムでフィニッシュし2位。さらにツェガエ・ゲタウェウがわずか3秒遅れの3位でフィニッシュし、エチオピア勢が表彰台を独占した。
この東京マラソンでの劇的なフィニッシュは、今年のワールドマラソンメジャーズの開幕を大いに盛り上げたが、これは2023年シーズンでこの後繰り広げられることになるさらに劇的なストーリーの前触れに過ぎなかった。
ボストンマラソン(4月17日)
ボストンマラソンは常に大きな興奮と期待をもたらすレースだが、今年はひとりのレジェンドランナー、エリウド・キプチョゲの出場により最高潮に達していた。
ボストンマラソン開催当時、男子マラソンの世界記録を保持していたキプチョゲは、マラソンメジャーズ6大レース全制覇を目指しており、今回のボストンでの勝利が期待されていた。
しかし、キプチョゲの壮大な計画は思うようには進まず、彼にとっては平凡なタイム、2時間09分23秒で6位に終わった。
男子レースは、2時間05分54秒でフィニッシュした同郷のエバンス・チェベトが連覇を成し遂げた。
女子レースでは、トラック種目で2度のオリンピック女子5000m銀メダリスト、ケニアのヘレン・オビリが2時間21分38秒をマークし、自身2度目となったマラソンで優勝を飾った。
ロンドンマラソン(4月23日)
トラックスターのオビリのボストンマラソンでの勝利が印象的だった以上に、オランダのシファン・ハッサンにとってデビューとなったロンドンマラソンでの勝利は世界中に衝撃を与えた。
レース中、ハッサンは腰をストレッチするために立ち止まったり、給水所で水分補給し損ねた後に道路を横切って走りバイクともう少しでぶつかりそうになったりするなど、数々のトラブルを乗り越えて勝利を収めたのだ。
しかも、一時は先頭集団から2分以上遅れていたにもかかわらず、それを見事に取り返しての劇的な勝利だった。
男子レースも同様に非常にスリルに満ちたものとなり、ケニアのケルビン・キプタムが自身2度目のマラソンでキプチョゲの世界記録にもうあと一歩と迫る記録で優勝を飾った。雨に濡れたコースで叩き出した2時間01分25秒のタイムは、彼を今後、最も期待される若手ランナーのひとりとして認めるにたる驚異的な記録だったと言える。そして、キプタムにとって歴史に名を刻む最高の瞬間はこの数ヶ月後にやってくることになる。
ベルリンマラソン(9月24日)
ボストンで不本意の6位に終わったわずか5か月後、キプチョゲは彼の最もお気に入りのレースであるベルリンマラソンに帰ってきた。しかし、2度のオリンピックマラソン王者とはいえ、現在のパフォーマンスに対して疑問の声も少なくはなかった。
39歳のキプチョゲはキャリアの終わりに近づいているのではないだろうか?これまで数々の歴史を築いた史上最高のランナーたるスピードはもう過去のものなのだろうか?
キプチョゲが私たちに示した答えは非常に劇的だった。彼は2時間02分42秒という素晴らしいタイムで誰よりも先にフィニッシュテープを切り、5度目のベルリンマラソン優勝という史上ただひとりの偉業を成し遂げた。この日のキプチョゲの優勝タイムは、前年にこのコースで出した記録よりも1分半以上遅かったが、もっとも、その記録はキプチョゲ自身が出した当時の世界記録だった。
男子レースではファンの期待通りに新しい世界記録は誕生しなかったが、女子レースはそうではなかった。
昨年の覇者、ティギスト・アセファがライバルを圧倒して新たな世界記録、2時間11分53秒を叩き出したのだ。この記録は、それまでの世界記録より2分以上速い驚くべきタイムだった。
しかも、アセファは中距離種目の800mからオリンピック陸上競技最長のマラソンに転向し、今回のベルリンマラソンが彼女にとって生涯3度目のマラソンだったということを考えると「驚異的」としか形容のしようがない。アセファの驚くべきパフォーマンスは、今後、女子ランナーがマラソンでついに2時間10分を切る日の近いことを知らしめたと言えるだろう。
「私はマラソンで世界記録を破りたいと思っていましたが、それがまさか2時間12分を切るタイムになるとは思ってもいませんでした。私はとても幸せです」とアセファはレース後に語っている。
シカゴマラソン(10月8日)
今年のシカゴマラソンは、歴史に新たな1ページを刻む記憶に残るレースとなった。ケニアのケルビン・キプタムが史上最高のパフォーマンスを発揮し世界新記録で優勝を飾ったからだ。
レース前、キプタムはシカゴで世界記録を破る可能性について控えめに語っていたが、23歳の若きランナーはレースを2時間00分35秒で制し、同郷のキプチョゲの持つそれまでの世界記録を34秒上回った。
30kmから35kmまでの5kmスプリットタイムは13分51秒という驚異的としか言いようのないもので、後半をネガティブスプリットで走る強さを示した。このキプタムのパフォーマンスは、マラソンの戦い方に新たなスタンダードを築くことになったと言える。そして、2時間を切るマラソン公認記録が近々誕生することは、単なる夢ではなく、確実に現実味を帯びてきている。
女子レースは、ロンドンマラソンに続いてハッサンが優勝し、この時のタイム、2時間13分44秒は女子マラソン史上2番目に速い記録となった。ハッサンはシカゴマラソンの数週間前に世界陸上競技選手権(ブダペスト)のトラック種目で3つの距離(1500m、5000m、10000m)を走っている。これはマラソンの準備としてはふさわしくないが、ハッサンはこれまでに何度も人々が不可能と思うことが可能であることを証明してきたことから、彼女にとっては取るに足らないことだったのかもしれない。
ニューヨークシティマラソン(11月5日)
ワールドマラソンメジャーズ最終戦のニューヨークシティマラソンでは、世界記録こそ生まれなかったが男子レースではコースレコードが記録された。
エチオピアのタミラト・トラが2時間04分58秒でフィニッシュして優勝し、この記録によって12年間続いたコースレコードが塗り替えられた。
女子レースでは、オビリがボストンマラソンに続いて今年のマラソンメジャーズ2度目の優勝を飾った。2度の世界陸上金メダリストがボストンとニューヨークの両方のマラソンで勝利するという快挙だった。
パリ2024が迫りくる今、果たして来年の世界のマラソンシーンが今年以上の盛り上がりを見せるかどうかはわからない。また、パリ2024で誰が勝利するかは誰にも予想がつかないだろう。ただ、今確かに言えることは、世界のマラソンシーンから今後一瞬たりとも目が離せないのは間違いないということだ。