19歳で北京五輪に出場し、東京大会で4度目のオリンピックを迎える水谷隼(みずたに・じゅん)。前回リオデジャネイロ五輪で初のメダルを手にしたが、そこからの4年間は苦難の連続だった。ここでは日本男子卓球界をけん引してきた水谷の生い立ちを紹介する。
ドイツ留学、全日本卓球選手権で最年少優勝
水谷隼は1989年6月9日に静岡県磐田市で生まれる。両親はともに卓球経験者。父・信雄さんは隼が5歳の時、自身が代表を務める豊田町卓球スポーツ少年団に、第1期生として入団させている。水谷は左利きだが、これもスポーツをする上で有利と考えた両親が、自然な形で矯正した結果だという。
8歳になるとジュニアクラブチームのヤマハクラブに所属し、技を磨いた。1997年、全日本卓球選手権大会バンビの部で頂点に立つと、年代別の日本代表に選ばれる機会も増えていく。そしてジュニア日本代表合宿をキッカケに、14歳・中学2年生でドイツ留学を決意する。世界トップレベルの選手が集う中、日本とは異なる時間よりも質を重視する練習、“個”を伸ばす指導の下、ドイツでの5年間で大きな成長を遂げる。高校2年次の2007年1月には、史上最年少となる17歳7カ月で全日本卓球選手権大会を制した(2018年に張本智和が更新、14歳208日)。
失意のオリンピック、中国とロシアで再起
2008年4月、すでに北京五輪出場を内定させていた水谷は明治大学へ進学する。初のオリンピック。次代を担うホープとして活躍が期待されたものの、結果は男子シングルス3回戦敗退に終わる。さらなるレベルアップの必要性を感じた水谷は、中国超級リーグに挑戦。浙商銀行に所属し、世界ランキング上位の選手たちと対戦することで、着実に経験を積み重ねた。そうして迎えた2012年のロンドン五輪。水谷にはメダルの期待が掛かるも、男子シングルスは4回戦(ベスト16)、団体は準々決勝で敗退する。またITTF(国際卓球連盟)が全面禁止しているものの、実際には野放しだった「ブースター(補助剤)」をラバーに塗り込む行為に関する告発を行うも、改善の兆しが見られなかったことが、失意に追い打ちを掛けた。
こうした中、水谷は新たな挑戦を行う。2013年、ロシア・プレミアリーグのUMMCに移籍。精神面でもタフとなった水谷は2016年、3度目となるオリンピックで男子シングルス銅メダルを獲得する。水谷は日本卓球界にシングルス初の五輪メダルをもたらすとともに(女子団体がロンドン五輪で銀メダル)、男子団体にも銀メダルをもたらした。リオデジャネイロ五輪での活躍後には、自身の監修した「水谷隼カレー」も大ヒットするなど、一躍時の人となる。しかし、ここからが試練の4年間だった。張本ら若手の台頭。さらに原因不明の目の不調に悩まされ、ボールが見えない症状にも襲われた。
東京五輪のシングルス日本代表には落選。それでも団体日本代表の“3人目”に選ばれた。2020年6月に31歳の誕生日を迎えた水谷。日本卓球界をけん引してきたベテランは、SNSでもユニークな発言をするなど、競技の魅力を伝える役割も果たしている。すでに銀と銅のメダルは獲得。東京五輪では、残された色のメダルを狙う。
選手プロフィール
- 水谷隼(みずたに・じゅん)
- 卓球選手
- 生年月日:1989年6月9日
- 出身地:静岡県磐田市
- 身長/体重:172センチ/63キロ
- 出身校:磐田北小(静岡)→城山中(静岡)→青森山田中(青森)→青森山田高(青森)→明治大(東京)
- 所属:木下グループ
- オリンピックの経験:リオデジャネイロ五輪 男子団体銀メダル、男子シングルス銅メダル
- ツイッター(Twitter):水谷隼 Jun Mizutani(@Mizutani__Jun)