想像してみてほしい。あなたは今19歳で、世界ランク1位で、これからオリンピックのフィギュアスケート競技でフリー・プログラムを滑るところなのだと。そしてオリンピック金メダル以外のすべての勲章はもう既に手に入れているとも。
母国からの期待が自分の双肩に重くのしかかっている。なぜならメダルを争う最大のライバルは母国ともっとも歴史的な因縁が深い国の選手であるからだ。
キム・ヨナが2010年バンクーバーオリンピックで直面したのは、まさにこのようなシナリオだ。このすべてのプレッシャーにもかかわらず、キムは競技人生で最高の滑りを披露し、その後7年間破られることがなかった高得点を叩き出した。
バンクーバーオリンピックでの金メダル獲得がこの韓国人選手の人生を変えたと言っても、それは大げさな表現ではない。
常勝者としてのキム・ヨナ
バンクーバーオリンピックにキム・ヨナが現れたとき、誰もがその名前を知っていた。
彼女について未知の部分は何もなかった。2003年に当時わずか12歳で韓国フィギュアスケート選手権のシニア部門で優勝したことも、2005-06シーズンではジュニア・グランプリ・ファイナルと世界ジュニア選手権
でも優勝したことも知られていた。
シニア部門にキャリアを移してからも、キムは同じように成功を重ねていった。グランプリを7回制し、グランプリ・ファイナルで3回チャンピオンに輝き、4大陸選手権と世界選手権でも優勝した。
実際のところ、ISU(国際スケート連盟)のシニア部門イベントでキムが出場しながらも優勝できなかった大会はスケート・カナダだけである(シニア部門にデビューした2006-07シーズンにこの大会で3位になり、それ以降は出場することはなかった)。彼女はまさに常勝者だったのだ。
とくに2009年に世界選手権を制してからは「女王」と呼ばれ、国内ですでに高い人気を得ていた。そして、その興奮はさらに過熱しようとしていた。
母国の期待
バンクーバーでは、キムは世間の注目から逃れるため、選手村から遠く離れた小さなホテルに滞在することを選んだ。
しかし氷上ではそうはいかない。2008年世界選手権を制した日本の浅田真央も金メダル候補として評判が高く、キムには日本と韓国の歴史的なライバル関係がもたらすプレッシャーも加わっていた。
「確かに私は母国を代表する選手なのですが、母国のために滑るということは荷が重すぎます」と昨年NBCスポーツとのメール・インタビューで認めている。
「韓国を代表するアスリートとして、母国に金メダルを持ち帰るというプレッシャーがありました」
ショート・プログラムでは映画『ジェームズ・ボンド』の音楽に乗ってトリプルルッツ-トリプルトーループのコンビネーションを含む高難度の演技を披露し、浅田との一騎打ちの場面は整った。
浅田もまた歴史的な滑りを見せていた。ショート・プログラムでは女子史上初となる3回転アクセルをオリンピックの舞台で成功させたのだ。だが、それでもキムのスコアは78.50で、この日本のライバルに5点差近くのリードをつけていた。
「恐れ知らずだと装っていた」
緊張は高まったが、キムは自分を見失うことはなかった。
フリー・プログラムではジョージ・ガーシュウィン作曲の『ヘ調の協奏曲』で滑り出し、4分間の完璧なプログラムを氷上で完成させた。
その魅惑的なパフォーマンスを終えると、こみ上げる感情を抑えられなかった。「私はずっと恐れ知らずだと装っていました。だけどあのプログラムを滑り終えた後、それまで私を内部から縛りつけていたプレッシャーが外に溢れ出したのです」とNBCスポーツのインタビューで明かしている。
浅田は2回の3回転アクセルを成功させたが、それ以外でミスがあり、キムのスコアに近づくことはできなかった。
「パフォーマンスの後に涙を抑えられなかったのはあのときだけです。まるで感情の嵐のなかにいるようでした」とキムは語った。
この韓国選手がフリー・スケートで挙げた150.06点は女子選手として史上初めて150点の壁を破った。その得点はエフゲニア・メドベージェワが2016年世界選手権で0.04点上回るまでの6年間、世界記録だった。
キムの総合得点は228.56点で、これも女子選手として史上初の220点越えを果たした。この得点も2017年にメドベージェワが破るまでの7年間、世界記録だった。
そしてこの勝利によって、キムは1998年にジュニア・グランプリ・ファイナルが導入されて以来、ジュニアとシニア4大国際大会で優勝を果たした全部門を通じて史上初のスケート選手となった。
2018年平昌オリンピックでの役割
韓国内でのキムの人気はその後も衰えることはなかった。引退してからも、スポンサーを通じた収入によって、キムは国内最高の収入を得るアスリートの1人であり続けた。
キムは後に続くスケーターたちの憧れでもあり続けた。2020年にローザンヌで行われたユース・オリンピックのチャンピオン、ユ・ヨンもキムに憧れてスケートを始めたと発言している。
ユは2020年の四大陸選手権で銀メダルを獲得した。これはキムが7年前に世界選手権で優勝して以来、韓国選手が世界スケート連盟(ISU)の大会で獲得した初のメダルとなった。
キムはスケート界への貢献を続けている。「All That Skate」と名付けられた恒例イベントを母親とともに運営している。
2010年の世界選手権から2012-13年シーズンが開始されるまでの間、2011年世界選手権にしか出場しなかった。2018年冬季オリンピック招致活動における平昌のアスリート広報大使を務めることに集中していたからだ。平昌の招致は2011年7月に決定した。
その貢献により、キムはオリンピック開幕式で最後に聖火台への灯火をすることになった。それはあたかも彼女が韓国で不滅の存在であることを示すような印象的な瞬間だった。
ファンにとっては常に「女王ユナ」なのである。