森保一監督率いるサッカー日本代表にとって、今や堂安律(どうあん・りつ)は必要不可欠な選手の一人となった。「日本史上最高の選手になること」を目標に掲げる彼のキャリアの初期には、サッカー人生の原点と言っても過言ではないある人物との出会いがあった。
2人の兄についていく形で、3歳でキャリアをスタート
ボールを蹴り始めたのは3歳のころ。2人の兄の影響だった。8歳年上の麿(まろ)さん、現在長野パルセイロに所属する3歳年上の憂(ゆう)さんが通っていた地元の小さなサッカークラブの練習について行ったのが始まりだった。
1998年6月16日生まれの堂安家の三男は、当時を振り返り、マスコミを前に笑顔でこう話したことがある。
「地元の尼崎にある浦風FCというクラブでサッカーを始めました。僕の兄貴2人がサッカーをやっていて、自分もついて行ったら僕が一番うまかった」
堂安少年は、3歳から9歳まで浦風FCでサッカーの楽しさに触れ、10歳の時に兵庫県西宮市にある強豪クラブ、西宮SSに加入した。西宮SSは、戦術的なことよりも選手の個人技を重視する指導方針を掲げている。練習メニューのほとんどは個々のテクニックの向上に充てられ、小学4年生からチームの一員になった堂安も無我夢中でトレーニングに取り組んだ。「左足で触るタッチは、小学生のころに身につけた技術が生かされている」と本人も語る。
この西宮SSで指導を受け、今でも親交のある早野陽さんとの出会いは、堂安の原点の一つと言える。堂安はある取材で「サッカーから生活まで、すべてを教えてもらって今の自分がある」とその存在の大きさを述べたことがある。なかでも早野さんがこだわったのが「一番をめざすこと」だったという。
「陽コーチには、常に『一番をめざせ』と言われていました。サッカーだけじゃなく何事においても。常に『お前は一番をめざしてトップに上がれ』と言ってくれましたね」
日本代表チームの主力としてピッチで躍動
堂安は「一番をめざせ」という言葉を胸に刻み、一気にそのキャリアを駆け抜けていく。
中学進学と同時にガンバ大阪に入団。中学2年生の時にはU−15カテゴリーの全国大会日本サッカー史上初の3冠を達成した。圧倒的な強さで日本の頂点に立つと、G大阪ユース時代の高校2年生の時にはトップチームに登録され、16歳11カ月18日というクラブ史上最年少でのJリーグ出場という記録を樹立する。
2016年10月のAFC U−19選手権では主力としてチームを引っ張り、U−20ワールドカップ(以下W杯)出場権獲得に貢献。日本を優勝に導くと同時に大会優秀選手に選出されると、U-20W杯での4試合出場3得点という好成績も相まって、2016年12月にはアジア年間最優秀ユース選手賞を受賞した。
2017年6月、19歳になった直後にオランダ1部リーグのフローニンゲンに移籍を果たす。チームの中心メンバーとして2シーズンを戦い、その間に日本代表にも定着した。中島翔也、南野拓実とともに、森保一監督率いるサムライブルーの“顔”としてピッチで躍動している。
堂安はかつてある取材で、「目標は日本史上最高の選手になること」と口にしたことがある。着実に近づきつつあるその目標には、恩師の「一番をめざせ」というフレーズが大いに影響している。1998年生まれの堂安は東京五輪世代であり、2020年には自身の存在価値を示す絶好の機会が控えている。