八村塁が日本の小さな町でミックス人種として成長するのは簡単なことではなかった。
「子供の頃はいつも人の影に隠れようとしていました。ぼくは、ほかの人たちと違っていたからです」
日本が生んだバスケットボール界のスーパースター・八村塁は、Airbnb(エアビーアンドビー)がスポンサーのオリンピアン&パラリンピアン・オンライン・フェスティバルにて、「八村塁の文化とスタイル」という番組に出演。マイケル・ジョーダン氏の娘であるジャスミンさんに、日本人の母とアフリカ人の父の間に生まれた子供として育った経験について語った。
ディズニーワールド内に設けられたNBAの「バブル(隔離地域)」内から、八村は「子供にとってはとても大変なことでした。かなりきつい経験をしました。あの町ではぼくたちは唯一の黒人家族だったと思います」と振り返る。
バスケットボールは八村が自分自身を見つけることを助けてくれた。いまや八村はそうして得た地位を使って「Black Live Matter」運動を盛り上げ、黒人の子供、日本人の子供、そして世界中のミックスの子供らの声を代弁することに誇りを持っている。
「この世界には、人種はただ1つしかないと思っています」― 八村塁
八村塁の両親
「ミックス人種の子供が日本で育つのは大変なことなのです。特に日本は単一人種ですから」と八村は言った。
八村が生まれた富山は日本の西側にあり、東京からはドライブすると5時間ほどは掛かる。日本人の母とベナン人の父を持つ八村は、小さな頃から自分はほかと違うと感じ続けていた。
「ぼくが子供の頃は、特にぼくたちが住んでいたような、小さな田舎の町には、黒人は多くありませんでした。ぼくたちが町で唯一の黒人家族だったと思います。それは子供にとっては大変なことでした。かなりきつい経験をしました」
八村はスポーツの世界に自分を見いだした。
「だけど、ぼくがバスケットボールを始めた時、ほかのスポーツも始めたのですが、自分がそれを、とてもうまくできることが分かりました。野球、バスケットボール、空手、サッカー、陸上競技、そのどれをやっても、ぼくはいつも誰よりも運動能力が高かったのです。ぼくはいつも1番になることができて、周囲もぼくを認めてくれるようになったのです」
「そして、自分が自分であることはとても素晴らしいことで、ぼくは特別なのだって思えるようになりました。半分は黒人で、半分は日本人だって」
「ぼくは自分が自分であることにいつも誇りを持っています」
八村塁「世界には、人種は1つしかない」
日本バスケットボール界が生んだ驚異の新人はワシントン・ウィザーズのチームメイトと連帯し、**「Black Lives Matter」**に運動に賛同する画像を自身のインスタグラムに投稿した。
「ワシントンは米国の首都ですし、そこには多くの背景を持つ人々がいます。とても多様で、たくさんの文化があります。それはとても素晴らしいことです。チームとしても社会活動に熱心ですし、いまは特に、Black Lives Matterに取り組んでいます。私たちはそうした運動の中で大きな存在なのです」
Black Lives Matterについてもっと詳しく話してほしいとジャスミンさんに問われると、八村は次のように答えた。
「それについて話すのはぼくにとっては難しいことです。ぼくは日本で黒人として育ちました。Black Lives Matterは米国での歴史にもっと大きく関わっていますし、ぼくはそれについては詳しくはありません。だから、それについてはあまり語りたくはないのです」
「この世界には人種は1つだけであるべきです。5個も6個もあるべきではありません。違う人種はないとぼくは思います。だから1つだけだと思うのです。ぼくは世界中の人間が1つになるべきだと感じています。とても難しいことだとは分かっていますが、ぼくはこの世界には人種は1つしかないと考えています」
Tokyo 2020と八村
「オリンピックに出場することはぼくの夢の1つでした。バスケットボールを始めた頃から、ぼくはNBAプレーヤーになりたかったし、オリンピックでもプレーしたかったのです」
「ぼくがバスケットボールを始めた頃から、Tokyo 2020(東京五輪)のことが人々の話題になり始めていました。オリンピックに日本代表が出場するのは大変なことなのです。最後にバスケットボール日本代表がオリンピックに出場したのはずいぶん昔のことだったと思います。(1976年モントリオール五輪以来)私たちはついにオリンピック出場権を得ました。とても楽しみにしていたのですが、こればかりは仕方ないですね」― 八村塁
「いまでは日本でも、ぼくのようなミックスの子供が増えました。テニスの大坂なおみ選手もそうですね。たくさんのミックスの子供たちがオリンピックで日本を代表することになるでしょう。だからオリンピックでほかの仲間と出会えるだろうと楽しみにしていました」
「来年はオリンピックが開催されて、ぼくたちが出場するチャンスがまだあることを願っています。東京は本当に大都会ですし、とれも大きなイベントになります。ぼくはとても楽しみにしているのです」
いまも苦しんでいる子供たちへ八村が送るアドバイス
八村がバスケットボールを始めたのは13歳の時だった。それ以前に幼い八村が感じていたことをいまも感じている子供たちに、八村はなんと言うだろうか?
「いまでは日本にはミックスの子供はたくさんいます。特に東京ではそうですね。ぼくには彼らの気持ちがよく分かります。ぼくはいつも人の影に隠れようとしていた子供でした。ぼくはほかの人とは違っていましたからね」
「ぼくはいまでもシャイな性分であることは変わっていませんが、ミックスであることは素晴らしいのだと思うようになりました。黒人であり、日本人であることは、とても素晴らしいことなのです。バスケットボールを始めてから、自分は特別なのだと思い、自分を好きになり始めたのです」
「みながバスケットボールをしなくても良いですが、子供たちが何か夢中になれるものを見つけてほしいと思います。それが子供たちに言いたいことです」
エア・ジョーダンと八村
子供の頃に家族でニューヨークに旅行した時、八村はバスケットボールとスニーカーに目を奪われた。そしていま、八村はその夢の機会も手にした。
八村は自身のシューズをデザインするチャンスを得て、ミックスである自分の姿を表現することを選んだ。
八村の母は八村がバスケットボールを選ぶことに大きな影響を与えただけでなく、このロゴにある'H'をサムライ風にデザインすることも勧めた。
右足は日本で最も人気のある花・桜をあしらった日本風のデザイン、そして左足は明るい色に彩られたアフリカ風のデザインだ。
「自分のシューズをデザインすることができて、とてもうれしかったです。自分の国と父の国を表現できました。父は西アフリカのベナン共和国出身です。ぼくは自分が自分であることにいつも誇りを持っています。ぼくの半分は黒人で、もう半分は日本人なのです。だから、ぼくの背景にあるその2つの文化をシューズに混ぜたかったし、それこそがぼくという人間を表現することでもあったのです」