馬術の英雄「バロン西」が世界の頂点に ベルリン五輪では日本人女性初の金メダリストが誕生【1930年代の日本人メダリスト】

競泳と陸上競技勢が活躍。鶴田義行は平泳ぎで連覇達成

1 執筆者 オリンピックチャンネル編集部
田島直人はベルリン五輪の三段跳で金メダルに輝いた。走幅跳では銅メダルを獲得している

1930年代、世界恐慌や戦争の影響により情勢が悪化する一方、日本はオリンピックでは獲得メダル数を増やすなど、スポーツ界で着々と力を発揮していた。1932年のロサンゼルス五輪では馬術の英雄、西竹一(にし・たけいち)が名を馳せ、1936年のベルリン五輪では前畑秀子が女子200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した。

悲劇の主人公「バロン西」が馬術で金メダル

1932年のロサンゼルス五輪は、史上2度目となるヨーロッパ以外の地域でのオリンピックであり、アメリカでの開催はセントルイス五輪以来、2度目となった。

ヨーロッパから遠く離れた地域での開催であったことに加え、世界恐慌が起こった時代背景もあり、参加国や選手数は激減した。ただし、日本は1931年の満州事変勃発などにより国際世論の厳しい風当たりを受けていたなかで、192人の大選手団を送り込み、過去最多となる18個のメダルを持ち帰った。

なかでも目立ったのは競泳勢の活躍だ。18個のうち、12個のメダルが競泳で、男子の競泳では全6種目中5種目で金メダルを獲得。背泳ぎでは1位から3位までを日本勢が占め、表彰台を独占した。男子200メートル平泳ぎに出場した鶴田義行は、アムステルダム大会に続く連覇を達成。オリンピックの平泳ぎ種目で連覇を果たしたのは、これまで鶴田と北島康介(2004年アテネ五輪、2008年北京五輪)の日本人2人しかいない偉業だ。

また、ロサンゼルス五輪で一気に知名度を上げたのは、馬術の大障害で金メダルに輝いた西竹一(にし・たけいち)だ。東京の麻布で男爵家の三男として生まれた西は、兄の早逝によって家を継ぎ、男爵となった。語学も堪能で「バロン西」という愛称で親しまれた。英語の「Baron(バロン)」は「男爵」を意味する。

西が本格的に馬術に取り組むようになったのは、陸軍士官学校に進学してから。確かな技術が認められ、25歳で騎兵学校の学生となった。ロサンゼルス五輪の2年前、西はイタリアに赴き、かけがえのないパートナーとなる「ウラヌス号」と出合う。ウラヌスとコンビを組んで欧州各地の競技会に出場して力を伸ばしていった西は、強豪ぞろいの欧米諸国にも臆することなく、堂々としたパフォーマンスで金メダルを獲得。西が1945年、42歳にして硫黄島で戦死した際には、国内だけでなく、アメリカでも若き英雄の死が惜しまれた。

銀銅メダルを分け合った棒高跳の2選手

1936年のベルリン五輪は、アドルフ・ヒトラーがオリンピック大会組織委員会総裁に就任した。オリンピック史上初めて聖火リレーが実施されたことで知られている。

日本勢は計20個のメダルを獲得。陸上競技の三段跳では田島直人が優勝を果たし、アムステルダム五輪の織田幹雄、ロサンゼルス五輪の南部忠平に続いて日本勢3連覇を達成した。マラソンでは、当時日本の占領下にあった朝鮮出身の孫基禎(そん・きてい/ソン・キジョン)が日本代表として出場し、金メダルを手にした。

ベルリン五輪における名シーンの一つに、西田修平と大江季雄(すえお)が激闘を繰り広げた陸上競技の棒高跳が挙げられる。

5時間以上にわたる大接戦で、メダル争いは西田、大江の日本勢2人を含む4人の戦いとなった。アメリカのメドウスが4メートル35を跳び、金メダルを獲得。西田と大江の記録はともに4メートル25で並んでいたが、「日本人同士で争うことはない」として2、3位決定戦を辞退。日本の選手団が先にクリアした西田を2位、大江を3位として届け出ると、これが公式記録として認められた。

翌日の表彰式では、年長で銀メダルを受ける予定の西田が、後輩である大江に2位の表彰台に立つよう伝えた。「次の東京大会でがんばってほしい」という激励の気持ちからだったという。帰国後、2人は銀と銅のメダルを半分に割ってそれぞれをつなぎ合わせ、「友情のメダル」として残した。

ただし、1940年に行われるはずだった東京五輪は第二次世界大戦のために中止となり、大江は1941年にフィリピンで戦死。2大会連続メダルの夢は叶わなかった。

日本人女性初の金メダリストが誕生

「友情のメダル」が歴史に刻まれたベルリン五輪では、競泳の女子200メートル平泳ぎで前畑秀子が優勝し、日本人女性初の金メダリストとなったことも大きなトピックの一つだった。

前畑は前大会のロサンゼルス五輪の同種目で、1着の選手とわずか0.1秒差で2着となっており、4年前の悔しさを晴らした形となった。この決勝レースをラジオ中継したNHKの河西三省アナウンサーによる「前畑がんばれ!」の絶叫は、日本オリンピック史の伝説として残っている。

こうして日本はオリンピックの舞台で着々と結果を残していったが、スポーツ界が盛り上がりを見せる一方で、世界規模の戦争は広がりを増していき、1940年・1944年のオリンピックは中止とせざるを得なくなった。1940年代は1948年のロンドン五輪しかオリンピックは開催されていない。第二次世界大戦の敗戦国と考えられたドイツや日本の選手団は参加が認められなかった。

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