2021年の夏、2度目のオリンピックを35歳で迎える。新田祐大(にった・ゆうだい)はロンドン五輪のチームスプリントで8位入賞を果たしたものの、リオデジャネイロ五輪代表入りを逃した。それでも、持ち前の精神力で再び立ち上がり、東京五輪行きを決めた。「めざすのはてっぺん」と明言する、日本自転車界のレジェンドの半生を振り返る。
長野五輪を見て抱いた「オリンピックへの憧れ」
新田祐大(にった・ゆうだい)は1986年1月25日に福島県会津若松市で生まれた。
自転車競技との出合いは、小学4年生の時。友人の誘いがきっかけだった。当時は仲間内でマウンテンバイクが流行しており、マウンテンバイクの大会に出場するための人数合わせとして呼ばれたのだという。大会はチーム戦のエンデューロ、時間内にコースを何周できるかを競うレースへの参加で、とにかく楽しいと感じた。さらに、レース終了後には勝者も敗者も入り交じり、出場した子ども同士が表彰台に上がってシャンパンファイトをした場面が印象的だった。
以来、表彰台から見た景色が忘れられなくなった新田少年は、その喜びを味わってみたいと思うようになり、1キロタイムトライアルからキャリアをスタートさせた。小学校6年生の時には機会に恵まれ、会津工業高校の自転車部の部員とともに、近所の背炙山を毎日走り、彼らの背中から多くを学んだ。小学校の卒業文集には将来の夢を「競輪選手」と書き記すほどすでに自転車に魅せられていたが、自転車の部活動がある中学校がなく、中学時代は自ら各地のロードレースを探して参戦。競技への情熱と、圧倒的な行動力で道を切り開いていった。
将来スポーツで生計を立てていきたい。そんな漠然とした思いをさらに強めたのが、1998年に長野で行われた冬季五輪だった。自身がスキーに取り組んでいたこともあり、数々の大記録を打ち立て、メダルを首にかける選手たちへの憧れを抱いた。その後、夏季五輪では自転車競技も開催されることを知り、オリンピック出場が自身の夢となっていった。
2005年に競輪デビュー、その後は自転車競技と両立
高校はスポーツ推薦で、福島県立白河高校に入学。しかしほどなく部活も勉強も、中途半端な状態に陥ってしまった。
その際、顧問の中野目啓先生に「何のためにこの高校に入学したのか」を問われ、自らの思いを見つめ直したという。「自転車に専念して勝負したい」。決意を新たにした新田は、自主性を重んじる中野目流の指導法でさらに才能を開花させ、2003年にインターハイ(全国高等学校総合体育大会)の1キロトライアルで優勝。翌2004年にはアジア・ジュニア自転車競技選手権大会のスプリントで2位に食い込むなど、高校時代に数々の結果を出してみせた。すると技能試験免除で日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)への入学が認められ、厳格な指導者のもと、過酷な練習の日々を乗り越えた。
卒業後、競輪選手としてデビューを果たしたのは2005年7月。小学校の卒業文集に記した夢をかなえてからは着実に経験を積みながら、幼いころから憧れるオリンピックの舞台をめざした。そして2011年にはついに最高クラスのS級S班に選出されて悲願のGIレースで初優勝すると、一連の成長がロンドン五輪のチームスプリント代表選出へとつながった。ただし、結果は8位。他国との圧倒的な差を、身をもって感じた。
私生活では2014年に結婚。2015年から競輪の年間獲得賞金ランキングでは3年連続で2位の成績を収めた。一方、競輪と自転車競技の両立に苦しみ、リオデジャネイロ五輪では無念の落選を経験している。それでも、自転車競技に専念するために自身が2016年春に立ち上げた「ドリームシーカー」というトラックチームの活動に力点を置き、競輪への参戦回数を減らして、意地で東京五輪行きをもぎ取った。コロナ禍の現在でもインスタグラムなどのSNSを通して自身の思いを発信するなど、今できることに懸命に力を注いでいる。
選手プロフィール
- 新田祐大(にった・ゆうだい)
- 自転車トラック選手
- 生年月日:1986年1月25日
- 出身地:福島県会津若松市
- 身長/体重:172センチ/86キロ
- 出身校:鶴城小(福島)→若松二中(福島)→白河高(福島)→日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所/静岡)
- 所属:日本競輪選手会福島支部
- オリンピックの経験:ロンドン五輪 チームスプリント 8位入賞
- ツイッター(Twitter):----1/45億人 🚲最速チャリ男-----新田 祐大 Nitta Yudai(@yudai_nitta)
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