戦後初の金メダルはレスリングの石井庄八。体操の小野喬は4大会でメダル13個【1950年代の日本人メダリスト】
日本は戦後、ヘルシンキ五輪で16年ぶりにオリンピック参加
戦争による2大会の中止と、招待されなかったロンドン五輪を経て、日本選手団は1952年のヘルシンキ五輪で16年ぶりに夏季オリンピックに参加した。なかでもレスリングや競泳、体操競技における選手たちの活躍は目覚ましく、独自の技を生み出してメダルを量産していった。
1940年代は2大会が戦争により中止に
夏季オリンピックが中止になった例は過去3回あり、いずれも戦争が理由だった。
1回目は第一次世界大戦の影響で中止となった1916年のベルリン五輪。そして2回目、3回目はいずれも1940年代に予定されていた東京五輪とロンドン五輪だ。1940年に開催されるはずだった東京五輪は、日中戦争のため1938年に日本が開催を返上し、"幻"となっていた。
国際オリンピック委員会(IOC)はヘルシンキでの代替開催を検討したが、ソ連のフィンランド侵攻が始まったことにより中止せざるを得なくなった。1944年にはロンドン五輪が予定されていたものの、第二次世界大戦のため中止の決断が下された。終戦後の1948年、あらためてロンドンで開催に至ったが、日本とドイツは戦争の責任を問われたために招待されなかった。
日本が連合国と平和条約を締結し主権を回復した1952年に行われたヘルシンキ五輪は、日本にとって16年ぶりのオリンピック参加となった。同大会は初参加したソ連が大量の選手団を送り込んだことにより、参加選手は5429人と大規模で開催されている。日本は陸上競技や競泳などを中心に72名の選手を派遣したなか、唯一の金メダルを獲得したのは、レスリングのフリースタイル・バンタム級に出場した石井庄八だ。
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下となった日本は柔道も剣道も禁止された。旧制千葉中学校(現県立千葉高校)時代に柔道に取り組んでいた石井がその鬱憤を晴らすために始めたのがレスリングだった。レスリングに限らず、他の競技でも日本人選手は、戦後の食糧難で外国選手との体力差が歴然だったが、ひとり気を吐いた石井は、日本における戦後初の金メダリストとなった。
「体操ニッポン」の礎を築いた小野喬
1956年のメルボルン五輪は、初めて南半球にて開催されたオリンピックだ。ただし、オーストラリアの検閲に関する法律などにより、馬術競技のみスウェーデンのストックホルムにて実施された。日本は12競技、計117人の選手を派遣した。なかでも顕著な活躍を見せたのが体操の小野喬(たかし)だ。
当時、体操競技が盛んなヨーロッパとは一線を画した演技で世界からの注目を集め始めていた日本は、ヘルシンキ五輪の後にローマで行われた世界選手権にて団体総合で2位に入った。メルボルン五輪でのメダル獲得が有力視されるなか、小野は種目別の鉄棒で新技「ひねり飛び越し」を披露し、日本体操界初の金メダルを獲得。さらに、あん馬と個人総合で銀メダルと、個人種目で3つのメダルを手にした。また、団体総合では、1位のソ連にわずか1.85点及ばなかったものの、銀メダルで表彰台に上った。なお、小野はヘルシンキ五輪から4大会連続でオリンピックに出場し、金5個、銀4個、銅4個と計13個ものメダルを獲得。「体操ニッポン」の礎を築いた。
レスリング、競泳、体操が日本のお家芸に
1956年のメルボルン五輪では、レスリングで2人の日本人金メダリストが誕生した。男子フリースタイル・ウェルター級の池田三男と、男子フリースタイル・フェザー級の笹原正三だ。
池田は寝技でレッグホールド、スタンド技で首投げという独自の技を得意とし、強豪選手を次々と破って最終日の午後を待たずに優勝を決めた。笹原は、ヘルシンキ五輪の金メダリスト石井庄八の中央大学の後輩だった。石井の活躍に触発された笹原は、「ササハラズ・レッグシーザーズ」と命名された必殺技「股裂き」を武器に勝ち抜き、頂点に立った。彼ら2人の目覚ましい活躍により、ヘルシンキ五輪での石井の金メダルが偶然ではなかったこと、そして日本のレスリングが世界に通用することが証明された。
また、メルボルン五輪では、男子200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した古川勝を筆頭に、競泳勢の活躍も目立った。山中毅は400メートルと1500メートル自由形で2つの銀メダル、石本隆は200メートルバタフライ、吉村昌広は200メートル平泳ぎでそれぞれ2位に入り、競泳勢だけで計5つのメダルを獲得した。
戦後の復興期に当たる1950年代に台頭したレスリング、競泳、体操はいずれも現代にまで続く日本のお家芸となった。それは当時の選手たちが世界の技やスピードを学び、日本流の工夫と練習を重ねた努力の賜物だった。