【バレーボール】荒木絵里香と清水邦広、チーム最年長の2人が挑む集大成の東京五輪

1 執筆者 オリンピックチャンネル編集部
Araki Shimizu

かつては世界の強豪と言われ、日本のバレーボールは男女共に世界から追われる存在だった。

バレーボールが正式採用された1964年の東京五輪で“東洋の魔女”が手にした金メダル、男子の銅メダルを皮切りに、1968年のメキシコシティ五輪は男女ともに銀メダル、1972年のミュンヘン五輪は男子が金メダル、女子が銀メダルを獲得。大会と同時に放映されていた「ミュンヘンへの道」人気も相まって熱狂を巻き起こした。

しかしそれ以後、1976年のモントリオール五輪で再び世界の頂点に立ち、1984年のロサンゼルスで銅メダルを獲得した女子に対し、男子はメダル獲得から遠ざかり、92年のバルセロナ五輪を最後にアトランタ、シドニー、アテネと出場を逃がした。2008年の北京五輪に16年ぶりの出場を果たすも全敗で1次ラウンド敗退。女子も1988年のソウル五輪で初めてメダルを逃がし、2000年のシドニー五輪は出場すら叶わなかった。

日本は世界の強豪とも呼ばれていたものの、時代とともに欧州勢やアメリカ、ブラジルといった各国との差は開いていった。2012年のロンドン五輪で女子が28年ぶりとなる銅メダルを獲得したが、2016年のリオデジャネイロ五輪は準々決勝敗退。厳しい戦いは今なお続いている。

1964年以来、実に57年ぶりとなる東京五輪。男子はバルセロナ五輪でエースとして活躍した中垣内祐一が監督となり、女子はロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得し、雪辱を誓ったソウル五輪で4位に沈んだ際の司令塔、中田久美が率いる。

男女ともに10代や20代前半の選手も多く、ニッポンバレーの新たな礎を築く次世代にの選手たちに期待が懸かる一方、この五輪を集大成として挑むのが女子主将の荒木絵里香と、男子の清水邦広。どちらもチーム最年長の2人だ。

荒木絵里香、4度目の五輪に挑む

荒木は成徳学園高校(現下北沢成徳高校)在学時から同学年の大山加奈や栗原恵、2学年下の木村沙織とともに日本代表候補に選出されてきたが、アテネ五輪は直前で落選。目指す舞台に立てなかった悔しさを糧に2008年の北京五輪出場を掴むと、以降はロンドン、リオ、そして東京と4大会連続で日本代表に名を連ねた。

銅メダルを獲得したロンドン五輪では主将を務め、今も激闘として語り継がれる韓国戦ではブロック、サーブで活躍した。メダリストとなった後は結婚を経て2014年1月に長女を出産。盟友の木村沙織が主将を務めた2016年のリオ五輪直前に日本代表へ復帰した。

8月に37歳となる荒木にとって、東京五輪は「集大成」と位置付ける舞台。東京五輪の延期以降、ここまで主軸を担ってきた岩坂名奈、新鍋理沙、佐藤美弥といった選手たちが引退を決断する中、荒木は昨年にロンドン五輪以来自身2度目の主将に就任し、常に第一線で戦い続けてきた。

日々成長する長女の傍らで同じ時間を過ごすことのできない苦しさや悲しみ、葛藤を抱えながらも「東京五輪のために」と前だけを見て、ようやく迎える晴れ舞台。

今年3月に江畑幸子も引退を表明し、ロンドン五輪を戦った選手の中で現役は荒木のみ。「これまで一緒に戦ってきた仲間、ここに立つことのできなかった仲間の分も思いを背負って戦いたい」と、自らの夢と仲間の思いを背負い、4度目の五輪に挑む。

清水邦広、夢が叶わなかった盟友の分も

東海大学4年時に北京五輪へ出場した清水にとって、初の五輪は悔しさだけを味わう、苦い経験だった。1次ラウンド5戦全敗。「何もできなかった」という後悔を晴らすべく、ともに北京五輪へ出場した同学年の福澤達哉と「次は自分たちが日本をオリンピックへ連れて行こう」と誓い合った。

サウスポーから繰り出す強打や、ジャンプサーブ。チーム屈指の点取り屋として、ロンドン、リオと五輪出場に向けて先頭に立ち戦い続けてきたが、2大会続けて最終予選で涙を飲んだ。それでも自身にとって夢の舞台である東京五輪に向け鍛錬を続ける中、思わぬアクシデントにも見舞われた。

パナソニックのエースとして出場していたVリーグ、2018年2月の試合中、スパイクの着地でバランスを崩し、右膝前十字靭帯断裂で、全治12か月という選手生命をも脅かすほどの大けがを負った。一時は「引退も考えた」と言う清水だが、絶望から再び立ち上がらせたのは東京五輪であり、その場を目指そうと誓った福澤の存在だ。

チームメイトというだけでなく、強い絆で結ばれた2人は切磋琢磨しながら、清水は奇跡の復活を果たし、2019年に再び日本代表で同じコートに立ち、復帰戦となった8月3日のカナダとの親善試合で、心境を問われた清水は復帰の喜びと福澤への感謝を述べ、コートインタビューで涙した。

2人でもう一度、五輪で戦おう。「現地集合」を合言葉に、清水はパナソニックで、福澤は2019年、20年とフランスに渡り、同じ場所を目指し自らと向き合い、鍛錬を重ねる。

描いた夢まであと一歩。しかし、6月21日に発表された東京五輪に出場する日本代表12名の中に、福澤の名はなかった。直前で夢が絶たれた福澤は清水にすべての思いを託し、清水も「北京(五輪)世代の思いも背負って戦いたい」と応える。

2人で夢を叶えることはできなかった。それでも、大学生だった北京で清水と福澤が「これから」につながる目標を抱き、強くなり続けてきたように、これからはその背中で同じように初の五輪へ挑む若い選手たちに伝えるべき立場でもある。

数えきれないほどの悔しさを味わってきた経験や、北京五輪出場が決まった時の歓喜。東京五輪は、そのすべてをぶつける場所だ。

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