コナー・オレアリー:自分のルーツを隠した過去と日本の若きサーファーのロールモデルとしての現在

執筆者 Lena Smirnova
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A male surfer in a green jersey smiles broadly after getting out of the water.
写真: Sean Evans/ISA

コナー・オレアリーは、「NAMINORI JAPAN」のロゴが左胸にプリントされ、「TEAM JAPAN」のワッペンが右胸に刺しゅうされた真白なTシャツを着て、Olympics.comとの独占インタビューに臨んだ。

気さくな会話が進む中、オレアリーは最後の質問を日本語で答えるよう求められた。その瞬間、彼の顔は明るく輝き、笑顔で快くうなずいた。彼はすぐに流暢な日本語で話し始めた。

この陽気な姿は、彼が子どもだった頃とは対照的だ。内気で自信がなく、母親がサーフィンの元日本チャンピオンであったにもかかわらず、そのルーツを隠すことばかりにとらわれていたと言う。

「シャイな子どもだった僕は、成長するにつれて周りに溶け込む自信がなくなり、母が日本人であることをできるだけ隠そうとしていました。周りと違うことが目立たないように」とオレアリーはOlympics.comに語った。

「僕はただ、いじめられたくなかったので目立たないようにしていました。学校に行っても、できるだけオーストラリア人らしく振る舞おうとしていたのです」

彼が自らのルーツを受け入れることはそう簡単にはいかなかったようだ。

しかし年々、オレアリーは母親から受け継いだ競争心にあふれ、オーストラリアのジャージを着て世界の主要なサーフィン大会を駆けまわった。

やがて、オレアリーは競技で着用するコンテストジャージの肩に、オーストラリアの国旗とともに日本の国旗を入れるようになった。母親の祖国を代表するという希望が生まれ、自らのルーツを完全に受け入れるようになった。

「日本のコミュニティと文化に触れるようになってしばらく経ちました」とオレアリーは振り返った。

「日本を代表して世界レベルで競技することによって、日本のサーフィンを有名にし、今後日本から出てくる才能が開花し、いつか金メダルを獲得できるよう手助けしたいと思っています」

サーフィンの元日本チャンピオンだったオレアリーの母

波の上で何年も時を過ごし、オレアリーは自分の人生の多くはサーフィンのおかげだと言う。おそらく彼の出自についてもそうだろう。

彼の両親は、シドニー郊外のクロヌラでのサーフィン大会で出会った。

彼の母親、サーフィンの元日本チャンピオンだった柄沢明美さんは競技のためにクロヌラを訪れていたが、彼の父親のフィンバー・オレアリーさんはサーフィンに熱中するローカルだった。

彼が生まれた当時、2人はオーストラリアの東海岸で波を探す旅をしていた。コナー・オレアリーは、彼が最初に乗った波を今でも覚えている。

「僕は父の大きなボードに飛び乗り、彼は僕を後ろから押してくれました」とオレアリーは思い出を話した。「その場所こそが、僕が海を愛するようになった場所です」

「母と父は僕にあまり強制することはしませんでした。彼らはただ海を愛していたからサーフィンをやっていただけで、僕はただ彼らについて行っただけだったのです」

「両親はいつも僕を連れて行ってくれました。なぜなら僕の面倒を見る人が他には誰もいなかったからです」と、彼は笑いながら言った。

オレアリーは、子どもの頃、サーフィンとサッカーの両方に取り組んでいた。しかし、17歳の時、これらのスポーツの競技大会が重なり始めたため、どちらかを選ぶ必要があった。結果、オレアリーはサーフィンを選んだ。

「サーフィンの全てが好きです。ライフスタイルも気に入っています。人生について僕に多くを教えてくれました」と彼は語った。

「海が教えてくれたことはたくさんあります。それが今日の僕を育ててくれました。振り返ってみると、サーフィンを選んだことは僕にとって人生最高の決断でした」

両親は彼にサーフィンを強要することはなかったが、彼が世界レベルのアスリートになるのを助けた。

オレアリーは、2017年にWSLチャンピオンシップツアーへの出場資格を得た。現在ではトップ10に入るほどのレベルだ。そして、この7月のタヒチ島チョープーで、オリンピックデビューを果たそうとしている(*)。

「母の持つ情熱と気力が、僕の中にも芽生えてきました」とオレアリーは話す。

「僕はかなり負けず嫌いですが、周りの人々はそうとはあまり思っていないでしょう。僕の根底にあるものです。僕はそれを母から譲り受けました。もしそれがなければ、今の僕はここにはいないでしょう」

*オリンピック各国代表の編成に関しては国内オリンピック委員会(NOC)が責任を持っており、パリ2024への選手の参加は、選手が属するNOCがパリ2024代表選手団を選出することにより確定する。各競技の出場資格に関する公式資料はこちら

元サーフィン日本チャンピオンの母親、柄沢明美さんと幼い頃のコナー・オレアリー

写真: Courtesy of Connor O'Leary

弁当箱を隠し、ルーツを隠した

オレアリーは、サーフィンの元日本チャンピオンである母親と暮らすことを愛していたが、彼女が家族のために作り上げた居心地のよい家から外に出ると、彼は自分のルーツを隠すことばかりを考えていた。

彼が他の子たちとは違うと感じたのは、たとえば、学校で彼が弁当箱を開いた時だった。

「母は、弁当用に小さな巻き寿司を作り、僕はそれを学校に持って行きました。周りの子たちは、『何それ?何を食べているの?』と言いました。他のオーストラリアの子どもたちのようにサンドイッチを持っていなかったので、僕は目立つようになったのです」とオレアリーは振り返った。

「僕はすごく嫌な気分で家に帰り、『お母さん、やめて…。オーストラリアの子たちのようにもっと普通のものを作ってくれる?僕が目立たないように』と言ったのです」

クロヌラには多文化的な子どもが少なかったため、オレアリーは自分のルーツを隠したがった。そのために、彼は地元の友人たちと同じように振る舞い、あえてオーストラリア的に過ごそうとした。

それはある程度まではうまくいっていた。少なくとも彼が友人たちを家に招くまでは。

「ドアを開けて友人たちが家に入ってくると、そこは全てが日本的でした」

オレアリーは過去を振り返り、成長にしたがって自分に自信を持てるようになったと言う。彼が隠そうとした自分の生い立ちも気に入っているようだ。

「馬鹿げたことでしたが、その時の僕はただの恥ずかしがり屋で、何事もないように、学校ではただ注目されずに済むことだけを考えていました」と明かした。

日本人としてのルーツを受け入れる

学校では日本人としてのルーツを隠そうとしたオレアリーだが、彼は常に日本とつながっていた。母親の柄沢明美さんは、彼が14歳になるまで毎年3〜4ヶ月間、彼を日本に連れて行った。

シドニーに戻っても、彼は母親と地元の日本人コミュニティと多くの時間を過ごした。日本人コミュニティの人々は、オレアリーがキャリアを積み、WSLツアーに出場することを支援した。この時は、まだ彼のジャージの肩にはオーストラリアの国旗だけが掲げられていた。

当時、オレアリーは、完全にオーストラリア人として競技を行っていたが、それが変わり始めたのは2020年だった。

コロナ禍によってチャンピオンシップツアーが中止される前、WSLは選手がジャージに国旗を表示できると発表していた。

「チャンピオンシップツアーが中止となった年の初めに僕は妻と一緒にいました」「彼女は僕を見て、『日本の国旗もオーストラリアと合わせて肩に入れたらどう?彼らに聞いてみたら?あなたには日本に多くの家族、友人、ファンがいるので、あなたの日本人としての側面を受け入れることができるといいね』と言いました」とオレアリーは明かした。

オーストラリア人の妻、ステファニーさんは彼の移籍を支持したが、彼の母親は最初、それをやめさせようとした。

「母は、僕が日本人である彼女のために(日本の国旗を)入れようとしたと思っていました。だから母は『私のためだけならやめて』と言っていましたが、実は僕にとってはそれ以上の意味があったのです」とオレアリーは語った。

「それは、日本にいる僕のサポーターやファン、家族に感謝を伝え、日本の文化を受け入れ、日本の若者にとってのロールモデルになりたいと思ったためでもあったのです」

そして、2021年のシーズンが始まった時、オレアリーは右肩にオーストラリアの国旗、左肩に日本の国旗を掲げて波に乗った。

パリ2024オリンピック会場となるタヒチ島チョープで日本とオーストラリア両方の国旗を掲げ波に乗るコナー・オレアリー

写真: Ryan Pierse/Getty Images

2024年3月、彼はさらに大きな1歩を踏み出すことになった。母親が彼の年齢で代表だった日本の代表として進み始めた。

オレアリーは2022年ISAワールドサーフィンゲームズ(米カリフォルニア州ハンティントンビーチ)で日本男子が獲得したオリンピック出場枠を得て、3人目の男子日本代表に内定した。

オーストラリアから日本へ移籍したサーファーのオレアリーは、シドニー2000パラリンピック競技大会で車いすバスケットボールを見に行った時は7歳になったばかりだった。

それから24年後の今年、オレアリーはタヒチ島チョープーで行われる自身のオリンピック出場を通じて次世代のアスリートを励ましたいと願っている。

「日本には、世界の舞台を目指すロールモデルとしての選手が少ないと感じています」

「オーストラリアでは、幸運なことに、世界中で活躍する多くのオーストラリアのプロサーファーたちを見てきました。いつも彼らを目標にし、彼らから多くを学ぶことができました」とオレアリーは話した。

「僕は、日本の若き将来有望なサーファーたちにとってのロールモデルになりたいと思っているのです」

「日本には、ツアーを回れるような世界クラスになる才能を持つ素晴らしい若いサーファーがたくさんいます。彼らの成長を導き助けるロールモデルが必要だと思います」とオレアリーは自らの役割を確認した。