志村雄彦「スポーツの力を感じた10年でした」 復興への歩みを止めなかったからこその東京2020大会に

志村雄彦
志村雄彦

「スポーツの灯を消さず、復興への歩みを止めなかったからこその東京2020大会になればと思います」。プロバスケットボールリーグの仙台で社長を務める志村雄彦は期待を込めて言った。東日本大震災以降、バスケットボールを通して故郷に寄り添い、笑顔を届けてきた。選手からゼネラルマネージャー、社長と立場を変えても、宮城への思いは変わらず。10年の節目で迎える復興オリンピック・パラリンピックに思いをはせる。

10年前、「どん底」の中で自問自答した選手としての価値

どん底からのスタートだった。10年前の3月11日、仙台の司令塔として活躍していた志村は、新潟へ遠征に向かう途中で震災に遭った。サービスエリアで激しい揺れに襲われ、予定されていた試合も中止になった。新潟から戻ったのは13日未明。生まれ育った故郷の姿に言葉を失った。

「いつもは光とともに迎えてくれる町が、停電で真っ暗でした。被災した人たちは情報を得る手段がなかったと思うけど、僕らはバスの中でテレビのニュースを見て逐一情報は入っていました。仙台空港が津波の影響で閉鎖されたりとか、沿岸部で火災が起きているとか、帰りのバスでは原子力発電所が爆発を起こした映像も見ました。リアルタイムで見ていたから、不安はありましたね。テレビで見ていた光景が、目の前にありました」

試合会場はもちろん、練習場も使えなくなっていた。犠牲者も多く、町の機能も停止していて、バスケットボールどころではなかった。チームは活動を休止して、解散。選手たちは救援物資の荷受け作業を行うことになった。

「ボランティアを続けながら、僕ら選手としての価値はどこにあるのだろうと思っていました。そんなときに宮城県名取市にチームのグッズなど物資を届けたことがあった。励ましにいくはずが、多くの人から『頑張ってください』と声をかけられた。スポーツなんかしていていいのかと悩んでいたけれど、みんなの笑顔を見たときに『バスケットボールを頑張ろう』と思えたんです」

チームの活動再開のめども立たないまま、リーグの選手救済制度を受けて琉球にレンタル移籍した。背番号は仙台時代の4ではなく、89。故郷への思いを背負ってプレーした。

震災で一時チームが解散の危機に陥った際、背番号89をつけ琉球へレンタル移籍
震災で一時チームが解散の危機に陥った際、背番号89をつけ琉球へレンタル移籍

震災によって強まった「仙台愛」。故郷のため続けたプレー

宮城県仙台市内で生まれた志村は、地元の仙台高校の主将としてチームを初の日本一に導いた。当時関東リーグ2部だった慶應義塾大学に進むと、4年時に主将として45年ぶりの大学選手権優勝へと引き上げた。卒業後、実業団チームを経て、2008年に仙台からドラフト指名を受けて故郷に戻ってきた。

「スポーツ選手だから、キャリアアップのために移籍することは必要だと思うんです。故郷でプレーできるチャンスというのも、そう多くはないから。高校のとき、日本一になって仙台が盛り上がった。また、バスケットボールで地元を盛り上げたいというのはありましたね」

仙台高校では、当時絶対王者の能代工業高等学校(秋田県)を下して日本一になった。慶應義塾大学でも奇跡と呼ばれた優勝を果たした。自らの力でチームを優勝させたいという野望があったからこその仙台入りだった。しかし、震災によって考え方が変わり、「仙台愛」がより強まった。

「普段は、地元への愛を感じる瞬間ってそんなにない。ただ、窮地に陥ったり、予期せぬストレスがかかったりすると、いろいろと考える。あのときは、まさにそうでした。被害に遭った故郷のために何ができるか。それが、僕にとってはバスケットボールだった。誰かのために、そう思い続けてプレーしてきました」

被害の大きかった仙台市の荒浜地区で3月11日の14時46分に黙とうを捧げる選手、スタッフたち
被害の大きかった仙台市の荒浜地区で3月11日の14時46分に黙とうを捧げる選手、スタッフたち

社長となった今、目指すのはチームが地域の文化になること

2018年に引退してゼネラルマネージャーに就任。2020年7月には社長に就任した。ユニホームからスーツへと立場は変わったが、故郷への、復興への思いは変わらない。今季は新たに「つなぐ」をコンセプトにした活動に取り組み、宮城県内各地で試合を開催。子どもたちと触れ合う機会を質量ともに増やし、その中で「防災意識」を高める取り組みも行っている。

「根本的に地域への思いは選手のときも社長になっても変わっていません。ただ、自分で表現していた選手時代と違って、今は周りに表現してもらう。その場を用意するのが仕事だと思っています。地域の皆さんにあらためて感謝をし、バスケットボールだけではない交流をしていこうと。関係をより深めていければと思います」

社長就任と同時に、新型コロナウイルス感染症拡大により新たな「どん底」も味わった。チーム経営の大きな柱である入場料収入が得られないと同時に、クラブとして力を入れてきた各地でのイベントも消滅した。震災、そして新型コロナウイルス感染症があったからこその新たな取り組み。その先には「スポーツを文化にしたい」という大きな目標がある。

「スポーツが、当たり前のように生活の一部になる。クラブとしてのゴールは地域の文化になること。このクラブのある暮らし。それを意識してもらえるかどうか。仙台の人はとても温かい。2013年のプロ野球チーム優勝、(フィギュアスケート)羽生結弦選手の金メダルなど、成功事例はあるんです。クラブの活躍で、地域が盛り上がればうれしい」

子どもたちと触れ合う機会を増やし、防災意識を高める取り組みも行っている
子どもたちと触れ合う機会を増やし、防災意識を高める取り組みも行っている

区切りの10年だからこそ、東京2020大会が震災を次世代に伝えるきっかけに

志村の思い描く未来に向けて、東京2020大会も大きなきっかけになる。復興オリンピック・パラリンピックとして、仙台でもサッカーの試合が行われる。被災した地域がスポーツで元気になるための起爆剤として、期待するところも大きい。

「世界が注目する大会が行われることで、宮城のスポーツ熱は間違いなく高まる。震災から10年の節目に行われるのだから、なおさらです。東京2020大会でスポーツ熱が高まることは、われわれの活動にとっても後押しになります」

東日本大震災から立ち直った被災地の姿を世界に発信する目的もある東京2020大会。10年に及ぶ活動で、その意味はよく分かる。コロナ禍ということもあって、決して状況はよくない。だからこそ、大会の成功を願う。

「国家でやるイベントは非常に大きい。僕らはスポーツを生業(なりわい)としている人間だし、復興がテーマだからなおさらです。自分自身、もっと当事者意識をもって関わっていきたいと思っています。みんなが『やってよかった』と思えるような、多くの人が誇れるような大会にしたい。震災もあって、新型コロナもあって、それでも『日本だからできたよね』と言ってもらえるように、当事者の一人としてやっていきたいですよね」

震災から10年、ハードの面では変わってきたことも多いという。「ずいぶん復興しましたね」と声をかけられることも増えた。ただ、区切りの10年だからこそ、震災のことを次世代に伝えていく重要性も感じている。復興オリンピック・パラリンピックである東京2020大会が、そのきっかけになるとも期待している。

「震災時からクラブにいるのは僕1人。ずっと、スポーツに何ができるかと考えながら活動してきました。その10年目に東京2020大会が行われる。スポーツの灯を消さず、復興への歩みを止めなかったからこその大会だと思っています。いろいろあったけれど、スポーツの力を感じた10年でした。だからこそ、復興オリンピック・パラリンピックは成功させたい。成功してほしいと思っています」

身長160cm。男子のバスケットボール選手としては驚くほど小さい体で、数々の偉業を成し遂げてきた。経営者になっても、あふれ出る情熱は衰えない。まだまだ終わることのない震災復興。東京2020大会が、その力になることを信じている。

「ずいぶん復興しましたね」と声をかけられることも増えたが、震災のことを次世代に伝えていく重要性も、志村は感じている
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