Olympic Games Melbourne 1956
メルボルン1956
オリンピックについて
1票差で勝利
メルボルンは、投票でブエノスアイレスより1票上回り、1956オリンピック競技大会の開催権を獲得しました。
最高のライバル
フランスの長距離走者アラン・ミムンは、オリンピック金メダルの獲得をチェコスロバキアのエミール・ザトペックに3度阻まれていました。しかし、この大会のマラソンでは圧勝。ゴール後は偉大なライバルで、旧友でもあるザトペックが6位でテープを切るのを待ち、抱き合いました。
圧倒的チーム
ビル・ラッセルとK・C・ジョーンズを中心とするバスケットボール男子アメリカ代表チームは、オリンピック史上、全く太刀打ちできないようなパフォーマンスを披露。毎試合で相手チームの倍以上得点し、30ポイント以上の差をつけました。
団結の象徴
1956年大会まで、開会式でも閉会式でもアスリートは各国オリンピック委員会のアルファベット順に入場していました。しかしメルボルンでは、オーストラリアで大工の見習いをしていた中国人青年ジョン・イアン・ウイングの提案により、閉会式では世界の団結の象徴として、アスリートが国籍問わず入り交じって入場しました。
**参加国・地域数:**72
**参加選手数:**3,314(女子376、男子2,938)
**競技種目数:**145
**ボランティア:**不明
オセアニア開催
オセアニアでのオリンピック開催はこの大会が初めて
ストックホルムで馬術
オーストラリア入国のための馬の検疫の問題を回避するため、馬術競技は2つの大陸(ヨーロッパとオセアニア)、2つの国(スウェーデンとオーストラリア)、2つの都市(ストックホルムとメルボルン)、2つの季節(6月と11月)で実施されました。近代オリンピックの100年にわたる歴史で、憲章に記された「同じ時間と場所」の規定が守られなかったのは、この時だけです。
2つのドイツが1つの旗で団結
国際オリンピック委員会の働きかけにより、(東西)両ドイツが統一チーム(EUA)として黒、赤、黄にオリンピックリングを入れた旗の下に参加。国歌の代わりに、ベートーベン交響曲第9番「歓喜の歌」が使用されました。両ドイツは、その後の2大会でも統一チームとして参加しています。
初のボイコット
ソ連のハンガリー侵攻に多数の西側諸国が抗議し、そのうちスペイン、スイス、オランダなど数カ国が不参加を決めました。また、エジプト、レバノン、イラクもイギリスとフランスが関与したスエズ動乱への抗議として参加を拒否。中国は中華民国の参加に抗議してボイコットしました。中国が次にオリンピックに参加したのは、それから28年後のことでした。
メダル獲得数
出場チームと獲得メダルの一覧はこちらから。
注目アスリート
リプレイ:
メルボルン1956
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ブランド
ビジュアル・アイデンティティは、各オリンピックごとに作成されるブランド
メダル
オリーブ冠に始まり、メダルのデザインも年々進化メダル
トーチ
オリンピックを象徴するものとして、開催国独自のバージョンを提示トーチ