クレー射撃スキート種目の日本代表としてTokyo 2020(東京五輪)に挑む石原奈央子は、メディアから「神職スナイパー」と称される。実家の古峯(ふるみね)神社で、自身も神主を務めているためだ。41歳の時、リオデジャネイロで初めてオリンピックの舞台に立ったアスリートは、「必然的に自分も射撃をやるもの」という環境で幼少期を過ごしている。
祖父も父も銃を撃つクレー射撃一家で育つ
父の敬士さんは「幻のオリンピアン」だ。クレー射撃の選手として、1968年のメキシコシティー五輪と1980年のモスクワ五輪の日本代表に選ばれている。しかし、メキシコシティー五輪は日本クレー射撃協会の不祥事によって、モスクワ五輪は日本の参加ボイコットによって、オリンピックの舞台に立つことができなかった。
石原奈央子は「幻のオリンピアン」の次女として1974年10月22日に生まれた。出身地には東京都と記されるが、故郷は栃木県鹿沼市だ。実家は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る古峯神社。約1300年の歴史を誇る由緒ある場所で育った。
クレー射撃にふれたのも、実家の古峯神社だった。父だけでなく、祖父の重殷(しげたか)さんもクレー射撃をたしなんでいた。神社には射撃場が隣接しており、父やその友人たちが銃を撃つ風景を見て育った。小さなころから「必然的に自分も射撃をやるもの」と感じていたという。もちろん、幼い時にキャリアをスタートさせたわけではない。原則として猟銃は20歳、空気銃は18歳にならないと持てないためだ。
同時に、「幻のオリンピアン」である父から競技に向き合う姿勢を教えられた。「一番を取ってこそ、競技者として成功したと言える」。実家の神社に隣接する射撃場。銃で小さな的を狙う祖父と父。父から伝えられた心構え。アスリートとして飛躍する素地は十分すぎるほどあった。実際、純心女子学園高等学校に通っていたころはサッカーに熱中し、FWとして東京都リーグの最優秀選手に選出された経験を持っている。
クレー射撃に本腰を入れたのは33歳の時
一方、銃の免許が取れる20歳を過ぎても、スナイパーとしてのキャリアは始まらなかった。昭和女子大学に進学し、勉強で忙しかったからだ。本人の記憶によると、免許を取得してクレー射撃を始めたのは「少し時間に余裕ができた23歳くらい」の時だ。
もっとも、免許を手にしてから本格的にキャリアを始めるまで、約10年を要している。その間は國學院大学に通い、実家の神社を継ぐ道を視野に神職の資格を取得した。その後は、イギリスのアングリア・ラスキン大学に進学し、5年ほど語学留学を経験している。
クレー射撃に本腰を入れ始めたのは33歳の時。日本クレー射撃協会の選手発掘プログラムに参加し、2007年に初めて全国大会に参加した。結果は散々なもので、最下位に終わった。最弱という成績で火がつき「絶対にうまくなってやる。絶対にオリンピックに行ってやる」と心に決めたという。
「幻のオリンピアン」である父の教えを請い、特にスキート射撃の腕を磨いた。半円の曲線上に置かれた7個の射台と、直線の中心に設定された1個の射台を回ってクレーを撃つ種目だ。時には父とぶつかりながらも、41歳の2016年、リオデジャネイロ五輪に出場した。「絶対にオリンピックに行ってやる」という夢をかなえたものの、結果は予選18位に終わった。
初のオリンピックで予選敗退して以降、実家の古峯神社で神主を務めながら、技術を高めてきた。2019年11月のアジア選手権で日本選手トップとなる16位の成績を収め、東京五輪の代表に内定した。しかし2020年10月の全日本選手権では、男子選手も混じる大会形式とはいえ、14位と低迷。「立て直せなかった」と悔しさを隠さなかったが、初めての全国大会から見せたような負けん気の強さを備える。「神職スナイパー」は「幻のオリンピアン」の夢も背負い、東京五輪での活躍を狙う。
選手プロフィール
- 石原奈央子(いしはら・なおこ)
- クレー射撃選手(スキート種目)
- 生年月日:1974年10月22日
- 出身地:東京都
- 身長/体重:158センチ/66キロ
- 出身校:純心女子学園高(東京)→昭和女子大(東京)→國學院大(東京)→アングリア・ラスキン大(英国)
- 所属:古峯神社
- オリンピックの経験:リオデジャネイロ五輪 予選18位