台風から一変、晴天で始まった1964年東京五輪ではあの文豪が特派員記者を務めた
1964年東京五輪の主役を演じたのは「東洋の魔女」たち
2020年に東京で行われるオリンピックは、夏季に日本で開催される2度目の大会だ。最初に行われたのは今から50年以上も前の1964年。日本にとって待望の世界的祭典に至る経緯や期間中の出来事などをつぶさに見てみると、日本そのものの歴史も浮かび上がってくる。
幻に終わった1940年の東京五輪
日本で最初に行われたオリンピックと言えば、1964年の東京五輪を思い浮かべる人が多いだろう。ただし、それ以前に実は東京五輪の開催が決定している。
1964年からさかのぼること24年、現在の東京23区にあたる東京府東京市でオリンピックが開催されることが決まっていた。1931年10月、東京市会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が採択されると、翌1932年には国際オリンピック委員会(IOC)に対して、1940年の開催地として正式に招致の意思を表示した。
最終的に東京とローマとヘルシンキの三つ巴となったものの、1936年7月のIOC総会で、1940年の開催地に東京が選ばれた。同時に1940年には冬季オリンピックが札幌で行われることも決定。招致活動の中心にいたのは、講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校の校長も務めていた嘉納治五郎(かのう・じごろう)だった。
だが、ほどなく嘉納たちの夢は水泡に帰す。交通網の整備やスタジアム建設の計画も実を結ぶことがなかった。1937年に日本と中国の間で始まった日中戦争が本格化したためだ。戦況を重んじ、1938年7月に日本は開催権を正式に返上する。招致の成功に尽力した嘉納は開催返上の事実を知らない。2カ月前の5月4日、IOC総会からの帰国途中の船上で、肺炎のため逝去している。
三島由紀夫も見守った1964年五輪の開会式
「失われた東京五輪」は、1964年にようやく開催された。開会式は10月10日、国立競技場で行われている。
開会式前日の東京は台風の影響で荒天。実施が危ぶまれたが、台風から一転、快晴のなか開会式は催されている。テレビ実況を担当したNHKの北出清五郎アナウンサーが「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」と話し出したほどの秋晴れだった。10月10日という設定は「雨模様も少なくない季節でもわずかに晴天の可能性が高い」という理由からのもので、見事予測が的中した形となった。
「彼が右手に聖火を高くかかげたとき、その白煙に巻かれた胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思ふが、かういふ感情は誇張せずに、そのままそつとしておけばいいことだ」
聖火の最終ランナーとして選ばれた陸上選手の坂井義則の姿を見てこのように記したのは、『仮面の告白』や『金閣寺』という小説で知られる作家の三島由紀夫だ。三島はいくつかの新聞社から依頼を受け、大会中、東京五輪の特派員記者のような役割を果たしている。
抜けるような青空のもとで開会式が行われた1964年の東京五輪は、当時IOCの会長を務めていたアベリー・ブランデージ(アメリカ)が「最高級のオリンピック」と評価したと言われる充実した大会となった。
世界を驚かしたバレーボールの「東洋の魔女」たち
93の国と地域、男女合わせて5152人のアスリートが参加し、20競技163種目が行われた世界的祭典で、開催国らしく日本勢は見事な成績を収めた。体操とレスリングでは、それぞれ5つの金メダルを獲得している。
獲得したメダル数は29個にも及ぶ。金メダルが16つ、銀メダルが5つ、銅メダルが8つという内訳で、休むことなくメダルを獲得する選手たちの姿に日本中が熱狂した。
16個の金メダルのうち、1964年の東京五輪の代名詞とも言えるような活躍を見せたのが「東洋の魔女」たちだ。女子バレーボール代表の愛称で、当時、連戦連勝を果たしていた日紡貝塚女子バレーボールチームのメンバーを軸に据えていた。河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯部サダを中心とするメンバーたちは、抜群のチームワークと技術とひたむきさを備えていた。
アメリカ、ルーマニア、韓国、ポーランドを下し、10月23日、同じく全勝を収めているソビエト連邦との決戦を迎える。試合は3セットを連取しての快勝。全5試合で落としたのは1セットのみという圧倒的な強さを披露し、「東洋の魔女」たちは世界中を驚かせた。
ソビエト連邦との一戦は、テレビ視聴率で66.8%をたたき出している。戦後復興を終え、高度経済成長期をたくましく生きる必要があった人々は、魔女たちの力強い奮闘に自分たちのあるべき姿を重ね合わせた部分もあったのだろう。
1964年のエンブレムは「すべての要素が調和」
1964年の東京五輪で存在感を見せつけたのはアスリートたちだけではない。この大会を通して、日本人クリエイターの価値が世界に認められている。
1964年の大会エンブレムのデザインを手がけたのはグラフィックデザイナーの亀倉雄策だ。亀倉はポスターのデザインも行っている。エンブレムは日の丸の下に金色の五輪のマーク、その下にやや細めの字体で「TOKYO 1964」と記されているだけのシンプルなものだ。だが、余計な装飾が一切ないからこそ、後世にも残る見事なデザインと考えられている。
事実、2016年に「I Love New York(Loveはハート)」のデザインで知られるアメリカ人グラフィックデザイナーのミルトン・グレイザーが、オリンピックの歴代エンブレムを総評した時、1964年のものに最高級の賛辞を送っている。
アメリカのグラフィック団体が運営するウェブサイト「Eye On Design」の記事で、グレイザーは亀倉が世に送り出したデザインに100点満点中92点の高得点を与えている。グレイザーは削りに削られたシンプルさに注目し、「適切に仕上げられていて一つの混乱もない。すべての要素が調和している」と述べている。
亀倉が五輪のマークのうえに鎮座させた大きな日の丸は、スポーツだけでなくデザインにおいても日本の力を世界に発信する大きな意味合いを持っていた。