花の国オランダにでっかい日の丸が揚がった。ゆっくりと、悠々と翻った。日本中が喜びに沸いた、金メダルに-。
「織田、第一等! 三段飛びに優勝す」(当時は「跳び」を「飛び」と表記)
新聞の見出しである。1928年(昭和3年)のアムステルダム五輪。織田幹雄が日本初の金メダルに輝いた。これはアジア初でもあったから、まさに快挙だった。
織田は予選で2回目に15メートル21センチを跳んだ。決勝ではそれを超えることはできなかったが、予選の記録も最終成績に含まれることになっており、それが生き残って優勝となったのである。予選の織田の組には世界の強豪がそろった。
「これで闘志がさらに湧いた。勝てる、とね」
負けず嫌いの性格が大舞台での勝負を制した、という。対照的に強豪たちは無名の身長167センチの小柄な織田の跳びっぷりにあおられ、平凡な数字しか残せなかった。
「日章旗が上がり、国歌が流れたときは涙があふれた。夢のようだった…」
織田はそう日記に記したそうである。
実は、競技が終わったときはドタバタだった。日本はノーマークで、大会本部は「君が代」のレコードも分からず、日章旗の用意もなかった。優勝などありえない、と思われていたのである。国歌は途中から始まり、途中で終わった、という。
ただ、日章旗は上がった。メダルを取って場内の応援団に行くとき体を包む国旗を担当者に渡して掲揚してもらった。ところが2、3位の選手の国旗の4倍くらいの大きさで、世界のスポーツ界に派手なデビューを果たしたのだった。終わった後、控室で廣田弘毅大使(のち首相)らと国歌を大合唱、大いに盛り上がった。
ほほえましいエピソードがある。宿舎の近くの子供たちに童謡「ウサギとカメ」を教えたところ、みんなが覚え、代々歌い継がれたという。
織田は広島県で生まれた。現在の高校生時代に素質を見せ、22年に初めて国際大会に出場し、三段跳びと走り幅跳びで優勝。「ジャンプの麒麟児」として全国に知られるようになった。24年にパリ五輪出場を経て、奨学金を得て早大に進んだ。
アムステルダム金メダルは大学3年生のときである。卒業後の31年、朝日新聞に入社。その年の学生競技大会で15メートル58センチの世界記録を出している。
故障から選手を退き、陸上の発展に尽力した。そのとき、プロ野球巨人の長嶋茂雄にこう伝えた。
「君が中距離選手になったら、五輪でメダルも夢ではない」
この逸話は長嶋自身も語っている。織田が人材発掘に並々ならぬ情熱を傾けていたことを示す話である。
ところで三段跳びと命名したのは織田である。英語では「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」。はじめは「ホ・ス・ジャンプ」といっていたのだが、競技プログラムに掲載するのに長すぎる、ということから織田は「三段飛び」と提案。これが認められた。
織田が礎を築いた三段跳びはその後、32年ロサンゼルス大会の南部忠平、36年ベルリン大会の田島直人が優勝、と五輪3大会連続で金メダルを獲得したところから「日本のお家芸」として世界に君臨した。
旧国立競技場に「織田ポール」があった。高さ15メートル21センチ。そう、アムステルダムの優勝数字である。歴史を作った織田は「日本陸上の神様」と讃えられている。