公開競技も含めて過去7回行われているオリンピックの野球において、日本は一度だけ頂点に立つことができている。それが初開催となった1984年のロサンゼルス五輪だった。開催国のアメリカと激突した決勝戦では、平均年齢22.5歳の若き日本代表が躍動した。
「棚ぼた」で初開催のオリンピック出場権獲得
1984年のロサンゼルス五輪は、日本にとって野球界の歴史を左右したとも言える大きな意味を持った大会となった。初めて複数のチームが参加する形で実施されたオリンピックにおいて、初代王者に輝くことができた。それも野球大国アメリカの地で成し遂げた快挙だった。
ロサンゼルス五輪での野球は、正式種目ではなく公開競技として実施された。公開競技のため、金銀銅メダルは授与されるが、公式な獲得メダル数には含まれない。日本は当初、アジア予選で敗退し出場権を逃していたが、アマチュア世界最強とも称されたキューバが政治的観点からボイコットしたために繰り上げでの出場だった。
当時はアマチュア選手しか参加が認められておらず、松永怜一監督が率いた日本は、社会人と大学生の混成チームで臨んだ。アジア予選での失敗を糧に、本大会に向けては平均年齢22.5歳の若いチームを編成。4番には当時19歳だった荒井幸雄を据え、正田耕三や和田豊、宮本和知、伊東昭光ら、のちにプロ入りを果たす精鋭たちが名を連ねた。
完全敵地の状況で演じた逆転劇
日本は韓国、ニカラグア、カナダと同居した予選リーグを2勝1敗の成績で1位通過。準決勝では、この大会後に西武ライオンズに入団する郭泰源(かく・たいげん)を擁した台湾に苦戦したものの、延長10回で2−1とサヨナラ勝ちを収めた。
決勝は、地元アメリカの勝利を信じる観客で溢れたドジャースタジアムで行われた。当時のアメリカ代表は、のちに1シーズン70本塁打の記録を打ち立てるマーク・マグワイアや、アメリカ野球殿堂入りを果たすバリー・ラーキン、読売ジャイアンツへ入団するシェーン・マックなど、そうそうたるメンバーをそろえていた。
日本の圧倒的不利が予想されたが、1点ビハインドで迎えた4回、当時明治大学の学生だった広澤克実の中前適時打で逆転に成功。3−1とリードした8回2アウトの場面では、広澤が大会3本目のホームランを繰り出し、最終的には6-3のスコアで難敵を下して見事金メダルに輝いた。なお、過去7回実施されたオリンピックの野球において、日本が頂点に立ったのはこのロサンゼルス五輪での1回のみとなっている。