アシュリー・バーティは、全仏オープンを制覇、そして初出場となったWTAファイナルズでも頂点に立ち、2019年を世界ランク1位で終えた女子テニス界の新星だ。その才能は初めてラケットを握った時から際立っていたという。コーチを虜にさせたその技量と、燃え尽き症候群になるほど努力を惜しまない彼女の素顔に迫る。
テニスとの出合いは4歳。9歳の時には15歳の男子と練習
2019年、女子テニス界に大きな旋風を巻き起こし、新たに世界女王に君臨したアシュリー・バーティは、1996年4月24日にオーストラリア北東部のイプスウィッチで産声をあげた。
父は政府機関に勤務し、母はレントゲン技師として働く家庭で、3姉妹の末っ子として育てられた。活発で体を動かすことが大好きだった2人の姉たちはバスケットボールに似たネットボールに熱中していたが、アシュリーは「姉に勝てないこと」と「女の子のスポーツだと思ったこと」を理由にネットボールには全く興味を示さなかったという。
そこで末っ子のアシュリーの心をひきつけた競技が、テニスだった。彼女が初めてコーチのジム・ジョイス氏に会ったのは、なんと4歳の時。ジョイス氏は通常、これほど幼い子どもの指導をすることはなく、依頼があっても断っていたが、アシュリーの場合は違った。ジョイス氏は迷わずコーチに就くことを決めたという。
「初めてラケットを握らせて、試しにボールを投げてみたら見事に打ち返してきた。視覚と手のバランス具合、そして集中力も素晴らしかった。私が彼女の倍ほどの年齢の子どもたちにレッスンをしている時も、決して私から目を離さなかったんです」
すっかりテニスの魅力にとりつかれたアシュリーは、毎日学校から帰ると、家のレンガの壁に向かって日が暮れるまで壁打ちをしていた。群を抜く才能と地道なトレーニングにより、さらに実力をつけ、9歳の時には15歳の男子と、12歳の時にはすでに成人男性と練習をするようになっていた。
2011年には、15歳ながらウィンブルドン選手権ジュニア女子シングルスで優勝。彼女の名は国内のみならず、世界にとどろくようになり、遠征や大会などで多忙を極めるようになった。17歳の時には一年のうち、わずか27日間しか自宅へ帰ることができず、アシュリー自身も心身ともに疲労を感じるようになっていったという。「すべてがとにかくきつすぎた。ツアーに出ても、いつも私は最年少だし、常に孤独を感じていたわ」と話している。
燃え尽き症候群で一年間の休養。復帰後に再ブレイク
その後はしばらくシングルスで目立った成績を残せなかったものの、ダブルスでは2013年に全豪オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープンの3大会で決勝に進出。いずれも準優勝となり、表彰台の常連の仲間入りを果たした。
しかし、心身ともに消耗していることを感じたアシュリーは思い切って休養することを決断する。2015年には「普通のティーンエイジャーの生活を送ってみたい」とプロツアー離脱を宣言した。
地元で家族とともに当たり前の日常生活を送りながら、ブリスベン・ヒートというクリケットチームにも参加。「ヘタクソな選手だったけど」と謙遜するアシュリーだが、持ち前の運動神経でなかなかの活躍ぶりを見せ、チームの得点源となった。「試合後に初めて祝杯をあげてね。チームメイトとビールを飲んで、人生で初めて勝利の美酒というものを味わった気がする」と話す。
一年間のリフレッシュ期間を経て、アシュリーはさらなる進化を遂げて再びコートに戻ってきた。
「これこそが、私がやるべきこと。やっぱり私はテニスを愛している」
他の競技を体験したからこそ、テニスへの思いが一段と強まった。2016年6月のノッティンガム・オープンでツアー復帰を果たすと、2017年にはシングルスでも飛躍。クアラルンプールで行われた大会で優勝を果たした。2018年にはダブルスで全米オープンを制覇してみせた。
そして2019年への物語へとつながっていく。全仏オープンのシングルスで初優勝を果たし、初出場となったWTAファイナルズも制し、世界ランキングで1位に上り詰めた。2020年は1月のアデレード国際のシングルスで優勝しており、視界良好だ。「私にとって初めてのオリンピック。わくわくする」と、東京五輪出場にも意欲を見せている。4歳で発掘された才能の快進撃はとどまるところを知らない。