「その悔しさはオリンピックチャンピオンになっても忘れられない」
この言葉ほど、須﨑のアスリートとしての在り方を示す言葉はないだろう。
9月16日〜24日の日程でレスリング世界選手権2023が行われているセルビア・ベルグラード。前年にこの地で行われた世界選手権に続き、女子50kg級で須﨑優衣は金メダルを首にかけ、チャンピオンベルトを腰に巻いた。
東京2020では全試合無失点で金メダルを獲得。年齢別の世界選手権をすべて制覇し、オリンピックも制した唯一のレスラーとして知られるばかりか、国際大会での負け試合はゼロ。今回の大会前には体調不良で合宿を取りやめたものの、最強レスラーのひとりとして君臨する須﨑が、「今回も圧巻のパフォーマンスを見せてくれる」と信じて疑わなかった人もいるだろう。
その期待が裏切られることはなかったが、9月19日の準決勝で勝利した後、パリ2024日本代表内定を決めて報道陣の前に姿を現した須﨑は、準決勝を振り返りながら、涙をこぼしたのである。
「この世界選手権まで苦しかったんですけど、今まで自分が経験したことがないような苦しいこともあったりして、でもそれを乗り越えて、今こうしてパリの切符を取ることができたので、本当によかったと思います」と、須﨑は言葉を絞り出した。
東京2020前の悔しい記憶と、世界選手権直前の怪我
今回の世界選手権は、須﨑にとって「絶対に負けられない」試合だった。その理由を知るには、4年前にさかのぼらなければならない。
東京2020の予選を兼ねて行われた2019年の世界選手権の代表選考プレーオフで、須﨑は入江ゆきに敗れてその座を入江に譲り、東京2020オリンピック出場はほぼ消滅した。
だが、のちに須﨑はアジア予選を通じて出場枠を獲得し、東京2020では全試合無失点で優勝。最高の形で金メダルを獲得した。少なくとも多くのファンの目にはそのように映ったはずだ。
しかし、オリンピック金メダルを取ったあとでも、2019年の世界選手権に出場できなかったという悔しい思いが消えることはなかった。
「4年前、東京オリンピック前に世界選手権に出られなくて悔しい思いをして、その悔しさはオリンピックチャンピオンになっても忘れられなくて」
「だからこそ、絶対に(世界選手権でオリンピック出場の)権利を獲得して絶対パリに行こうという気持ちがずっとあった。この大会でしか4年前の悔しさは晴らせないと思った」
その「執念」とも言える強い思いは、リベンジの舞台となった4年後の2023年世界選手権の数週間前に思わぬ形で須﨑に影響を及ぼすことになる。
ベオグラードで自身4度目のシニア世界選手権優勝を遂げた9月20日、須﨑はこの数週間の出来事を報道陣に語った。
「世界選手権で絶対に優勝してパリを決めたいという気持ちが強くて、練習をやりすぎて怪我をしてしまった」
練習中に右膝を負傷したという須﨑は、一時は足を引きずって歩くほどの状況で、タックルができるようになったのは、現地に入ってから。当然ながら、試合前の調整も通常通りではなく、不安を抱えながら「ぶっつけ本番」で試合に臨むこととなったことを須﨑は告白する。
大会では、初戦をテクニカルスペリオリティ(12-1)で勝利すると、続く準々決勝はわずか45秒でフォール勝ち。怪我していることなど感じさせないパフォーマンスだったが、「痛みが出てしまった」という準決勝では、中華人民共和国のジキ・フェンと激突し、心配されるシーンも。
「途中、相手に2点が入ったときに、自分に点数が入ったかなと思ったんですけど、そういう想定外のことが起こったときに絶対に私がとりにいくという強い気持ちを持ち直すことができた」と不安な中でも強い心で勝利をおさめた須﨑は、決勝では昨年と同様、モンゴルのドルゴルジャビン・オトゴンジャルガルと対戦。1分29秒でテクニカルスペリオリティ(10-1)で勝利した。
怪我を乗り越えて掴んだ勝利。しかし、その背景には「不安や葛藤」があったことは須﨑本人も認める。
「今回は、またさらに自分の幅が広がる経験ができて、それを乗り越えることができたので、来年のパリオリンピックに向けてこれもすべて自信にしていきたい」
「優衣のことを信じている」
4年前の悔しさを晴らすため、さらにはパリ2024につながるこの世界選手権で優勝してパリに行くいう目標を掲げた須﨑を支えたのは一体何なのか。
8月末から9月にかけて沖縄ではバスケットボールのワールドカップが実施され、日本代表男子チームは自力でのオリンピック出場枠を獲得した。その際に代表チームを率いたトム・ホーバスヘッドコーチは選手たちに「信じる力」の大切さを伝え、それがアジア勢1位という結果につながり感動を呼んだ。
そのエネルギーは、同時期に怪我に悩まされた須﨑のもとにも伝播していた。
「世界選手権の前に男子バスケットボール・チームがパリオリンピックの出場を決めて、そのときにトム・ホーバス監督が『信じる、ビリーブ』ということを言っていました」
「試合前の苦しい状況のときにお姉ちゃんが画像を送ってきてくれて、『私たちは優衣のことを信じている。怪我とか苦しいことがあっても優衣だからこそできると思う。私たちは優衣が世界チャンピオンになってパリオリンピックに行けるってことを信じてる』って言ってくれました」
「その言葉が自分の力になりました。信じる気持ちが今回の世界チャンピオンになれた理由だと思います」
降り立ったベルグラードの地で、須﨑は世界各地のファンからの声援を受けていた。イラン・イスラム共和国のサポーターたちが懸命に笛を吹いて須﨑を応援したかと思えば、ウズベキスタンのサポーターからは同国の伝統衣装をプレゼントされた。
英語でのインタビューにも身振り手振りを交えて相手の目をみて丁寧に対応するそんな姿には、彼女の人柄も表れている。須﨑が競技面で示してきた強さと笑顔に、魅了されている世界各地のファンは少なくない。こうした海外のファンの存在について須﨑はこう表現する。
「海外にくるとたくさんの方が応援してくれて、一緒に写真撮ろうとか、いろいろ気づいてくださったりして嬉しいです。イランの方やウズベキスタンの方、たくさんの方から応援していただけて、世界中の人に応援してもらえているんだなって改めて実感しています。モチベーションにつながりました」
こうしたすべての人々、経験を自信に、須﨑はパリ2024オリンピックでの2連覇を目指して歩みを続ける。