スケートボード・中山楓奈、怪我の怖さや緊張感…ひとつひとつ乗り越えパリへ

執筆者 Chiaki Nishimura
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 Nakayama Funa of Japan competes during the women's street final at the Olympic Qualifier Series on June 23, 2024 in Budapest, Hungary
写真: 2024 Getty Images

「去年は怪我続きでボロボロの1年だったし、迷っていた1年で空回ってたかな」

スケートボードが初めてオリンピック競技として実施された東京2020から3年。女子ストリート種目のレベルは飛躍的な進化を遂げた。

日本、ブラジル、オーストリアなどのスケーターがその牽引役となり、誰かが難易度の高いトリックに挑戦すれば、その姿に感化された別のスケーターが次の大会で周囲を驚かせる技を決めて見せる。東京2020で銅メダルに輝いた中山楓奈(ふうな)は、女子ストリートの進化の中で自身と向き合い苦闘していた。パリ2024オリンピック出場を決めた2024年6月、中山がOlympics.comのインタビューで語った。

中山楓奈、2度の骨折

「左の鎖骨を折っちゃって…」

2022年6月のパリ2024オリンピック予選・第1戦ローマ大会を優勝で飾り、2度目のオリンピック出場に向けて好調な滑り出しを見せた中山は、翌年5月、東京で開かれた国際大会で手すりから激しく落ち、鎖骨を骨折した。完治までに2ヶ月ほどを要し、「全然痛くないし、完治していると思う」という状態で挑んだ9月のオリンピック予選スイス・ローザンヌ大会では決勝に進むも、手をついた拍子に再び骨折した。

スケートボーダーにとって怪我はつきものだ。骨が折れたら治るまで辛抱強く待ち、治れば練習を再開する。勘を取り戻すのは簡単かもしれないが、恐怖心はなかなか消えるものではない。復帰後、オリンピック予選・第5戦となった世界選手権で中山は7位に沈み、続く第6戦・ドバイ大会では準決勝で敗退した。

「(東京では)得意なフロントKで(鎖骨を)折っちゃったので、前まで本当に信頼できる技だったんですけど、急に不安になっちゃって。(大会での)ベストトリックでも1発で決めるのが当たり前で、決まらなかったら『なんで』って感じだったのに、怪我もあって深く考えすぎちゃって失敗することが多くて…」

フロントKと呼ばれる「フロントサイドKグラインド」は、中山にとって代名詞と言われてきたトリックだ。板の前方の車輪の金具をレールにかけて斜めに滑り降りる。中山はストリートスケーター憧れの雑誌「THRASER MAGZINE」で、東京2020金メダリスト堀米雄斗に続いて日本人2人目として表紙を飾ったが、そこで写真に収められたのも、東京2020で銅メダルを導いたのもこの技である。

中山のスケート人生で初めての骨折。その出来事は復帰後も自身のパフォーマンスに影響を及ぼしたことを中山は認める。

2度目の骨折はスイスの大会でフロントサイドノーズブラントスライドを行ったときだった。

「スイスではフロントノーズブラントをして、手をついちゃったら衝撃で折れちゃって。ノーズブラントも私的には好きな技だったので、それで怖くなりました。最近では、やればできるけどやりたくないって感じの技になっちゃって…」と言葉を続ける。

どうすれば自信を持って跳べるようになるのか。中山は周囲の協力を得て課題と向き合った。

「もともとのレベルに持っていくので精一杯だったのと、あと中途半端な技が多すぎて技を絞りきれてなくて、いろんなものに手をつけてるけど極めてないって状態だった」

「この大会までにこの技がしたいっていう、欲張らずに2個ぐらいを極めるっていうのを最近話し合って決めて、そのおかげで集中して練習することができた」

「低いところから始めて、低いところで長く維持するっていうのを練習してて。怖くてもとりあえず低いとこで挑戦する。そのおかげで怖いけどちゃんとやったらできるくらいの成功率にはなりました」

中山が怪我からの回復に時間を充て、自身の課題に取り組む間、女子ストリート界ではより若いスケーターが成績を残し、注目を集めてきた。

「下から来るのはすごい怖くて…。同じくらい頑張ってるはずなのに、なんでそんなに綺麗にできるんだろうって」

「だけど、やる系統の技が違うから、すごいなっていいなって思いつつ、自分のことに集中したらあんまり気にならなくなりました」 と中山は振り返る。

中山楓奈「ここで頑張ったら未来変わる」

そうして迎えたオリンピック最終予選、6月のブダペスト大会。パリ2024日本代表の座は最大3枠。大会前4番手に沈んでいた中山だったが、ブダペストで3位となり最終ランキング4位(日本人3番手)でオリンピック出場を決めた。

しかし中山は、「ほぼほぼ行けないだろうな」と思っていたことを明かす。

「(ブダペスト大会で)最初は順位なんか気にしないって思ってたけど、いざ大会が始まると、今までの頑張りを無駄にしたくないっていうので、急にオリンピックのことが気になり始めました」と中山。決勝はパーク内を45秒間で自由に滑走する「ラン」2本のあと、シングルトリックを行う「ベストトリック」5本が実施されるが、その途中でオリンピックに行きたいという気持ちが高まるのを感じたという。

「ベストトリックの2本目、3本目でミスして8位くらいになったときに、急にオリンピックに出たいって思いだして急に焦りました」

「ここで頑張ったら未来変わるっていうか。東京オリンピックのおかげで私はすごい人生が変わったから、ここで頑張ればまた人生が変わるかもしれないって思うと急に出たいって思い始めました」

「大学行けたのもオリンピックのおかげだし、(地元の)富山にスケートパークが新しくできたのも東京オリンピックのおかげだと思っているし、日本中にスケートパークができて、スケートボードのイメージもがらっと変わってきたかなって」

「東京オリンピックのおかげで、頑張ってる人がいる、格好いい人たちがいるっていうのをみんなに知ってもらえた」と中山は穏やかな表情で語る。

東京2020で銅メダルを獲得してプレッシャーを感じることもあったが、それはもう過去のことだ。

「大会に出るたびにメダリストって言われてスタートするのが最初はすごい緊張して。だけど最近はもうパリが近づいてきたから、あんまり気にしないようになりました」

「この3年間でみんなのレベルが上がったし、東京オリンピックはもう過去のことだから、今、目の前にあるパリオリンピックに集中しようっていう感じで。だからメダリストって言われても緊張しなくなりました」

そんな中山はまもなく2度目のオリンピックを迎える。

「もともとすごいシャイで、規模の小さい中学校とか小学校に通ってて、友達も10人ちょっとしかいなかったのが、スケートボードのおかげで(友達が)日本中にできて、世界中にできた」。スケートボードの魅力を誇らしげに語る中山が経験してきた、怪我、恐怖心、プレッシャー…。ひとつひとつと向き合い、乗り越えて、パリの舞台に挑む中山楓奈。

「見せたい技を成功させることを目標にしようと思います」。