柔道の創設者である嘉納治五郎の生誕日(旧暦)にちなみ、柔道の価値を広く伝えるために国際柔道連盟が定めた、10月28日「世界柔道デー」。
この日に合わせ、Olympics.comでは、オリンピックの柔道競技において、記録や記憶に残る出来事、シーンを振り返った。
改めて歴史をさかのぼってみると、柔道界ではさまざまなドラマが繰り広げられている。これを機にそれぞれの心に残っているエピソードを思い出してみよう。
柔道が初めて実施された東京1964
柔道競技が初めてオリンピックで実施されたのは、2024年に60周年を迎える東京1964オリンピック。アジア初の大会となったこのオリンピックの24競技のひとつとして、初めて柔道が加わった。
競技は1964年10月20日から23日の4日間、日本武道館で4階級が行われた。柔道発祥の国としての威信をかけて挑んだ日本勢は、最初の3日間で3つの金メダルを獲得した。
しかし最終日を迎えた23日の無差別級・決勝で、怪我をおして出場した神永昭夫は、体重20kg、身長20cmほどの差があったオランダ代表のアントン・ヘーシンクと対戦。日本で修行を積んだことのあったヘーシンクに袈裟固(けさがため)1本を取られて神永は銀メダル。柔道ファンに衝撃が走った。
柔道は続く1968年のメキシコシティ大会では実施されなかったが、1972年のミュンヘン大会以降、主要競技のひとつとして定着している。
東京1964の無差別級は、日本の柔道ファンにとって大きな敗北となったが、ヘーシンクは優勝を決めた直後に、彼を応援していた人たちが靴のまま畳に上がって喜びを分かち合おうとしたのを制したエピソードも残っている。それは礼儀を重んじるこの武道が、日本のみならず国外にも伝わっていることを示した瞬間でもあったと考えられている。
また、オランダの柔道連盟は、「この勝利がなければ柔道が国際競技としての人気を得ることはなかったかもしれない」とするなど、柔道が国際的なスポーツとして羽ばたく機会となったという見方もある。
東京1964では27ヶ国の選手が参加して行われた柔道。東京2020では128ヶ国の選手が日本武道館の畳に立った。
山下泰裕、怪我を乗り越えて悲願の金
東京1964をテレビで見ていたのが、後に無差別級でオリンピック金メダルを獲得することになる当時7歳の山下泰裕である。山下は10歳で柔道をはじめ、いつかオリンピックに出たいという夢を抱くようになった。
しかし、その道は近いようで遠くもあった。山下は19歳のときにモントリオール1976の日本代表選考に敗れて補欠、4年後のモスクワ1980では代表に選ばれたものの、日本が出場を取りやめたことから再び出場は叶わなかった。
そして「3度目の正直」で掴んだロサンゼルスの舞台。27歳になっていた山下は2回戦となった準々決勝で内股をかけた際に右足のふくらはぎに肉離れを起こしてしまう。一度は落ち込んだという山下だが、自身が得意とする「開き直り」の精神で決勝進出を決めると、決勝ではエジプトのモハメド・ラシュワンを相手に1本勝ちをおさめた。
一方のラシュワンは、怪我をしている山下の右足を敢えて攻めるようなことはなく、真っ向勝負を挑み敗退。表彰式では山下の腕を支える場面も見られるなどして、のちにユネスコ(国際連合教育科学文化機関)からフェアプレー賞が贈られた。
谷亮子、女子最多5つのメダル
女子オリンピック柔道家で最も多くのメダルを獲得したのが「ヤワラちゃん」の愛称で親しまれた谷亮子である。女子柔道が初めて採用されたバルセロナ1992でオリンピック初出場を果たした48kg級の谷(当時、田村)は、この大会で銀メダルを手にすると、4年後のアトランタ1996でも銀メダルした。
2大会続いた「銀」を「金」に変えたい…。「最高でも金(メダル)、最低でも金(メダル)」の気合いで臨んだシドニー2000では、決勝でリュボフ・ブルレトワと対戦し、試合開始38秒で内股一本。悲願の金メダルを首にかけた。
当時プロ野球選手だった谷佳知と結婚後に臨んだアテネ2004は「谷でも金」を達成。出産後、「ママでも金」と宣言して北京2008に挑んだが、準決勝で敗れて3位決定戦に回り、銅メダルを獲得した。金メダル2個、銀メダル2個、銅メダル1個とオリンピックの個人種目で5つのメダルを獲得しているのは男女を通じてただひとりの偉業である。
女子でオリンピック金メダルを2個獲得した選手は複数いるが、東京2020で団体戦が採用されたことにより、1大会で2つの金メダルを手にすることも可能となった。それを成し遂げたのがフランスのクラリス・アグベニューである。リオ2016の63kg級で銀メダルを獲得したアグベニューは東京で金メダルに輝き、団体戦では開催国・日本代表チームを破って2つ目の金メダルを手にした。
東京大会後に女児を出産したアグベニューは再びマットに戻り、2023年の世界選手権を制覇。パリ2024での2連覇を目指す。
野村忠宏のオリンピック3連覇
オリンピック柔道の歴史において、3連覇を達成した柔道家はひとりしかしかいない。それがアトランタ1996、シドニー2000、アテネ2004の男子60kg級で金メダルを首にかけた野村忠宏である。
大学に入るまで目立った成績をおさめることはなかった野村だが、大学時代に才能を開花させると1996年春の全日本選抜柔道体重別選手権で優勝。同年のアトランタオリンピック日本代表に選ばれ、そのままオリンピック金メダル、さらにはシドニー2000での2連覇まで駆け上がっていった。
シドニー後には、現役を続ける決断ができずに一時は柔道から距離を置いたが、2年以上たって公式戦に復帰。世界選手権での3回戦敗退を機に再び「世界一」への気持ちが高まり、アテネ2004で3連覇を達成した。
近年では100kg超級でロンドン2012、リオ2016を制したテディ・リネール(フランス)が3連覇に近づいたが、リネールは東京2020準々決勝で敗れて敗者復活戦を勝ち上がって銅メダル。3連覇の道は閉ざされものの、初めて実施された団体戦ではフランス代表チームの金メダル獲得に貢献。自身3つ目の金メダルを手にした。母国開催となるパリ2024では個人3つ目の金メダルを狙う。
阿部一二三、詩兄妹の同日金メダル
東京2020オリンピックの柔道競技2日目。阿部詩(うた)と阿部一二三(ひふみ)の兄妹同日の金メダル獲得は今も多くの人の記憶に残っていることだろう。
2021年7月25日、先に行われたのは妹・詩の決勝だった。52kg級の詩は準決勝でリオ2016銀メダリストのオデッテ・ジュフリダ(イタリア)を破ると、決勝ではアマンディーヌ・ブシャール(フランス)を相手に延長戦の末に崩袈裟固(くずれけさがため)で一本勝ちをおさめ、バルセロナ1992から実施されてるこの52kg級で日本選手初の金メダルを獲得した。
詩が畳の脇で見守る中、男子65kg級決勝が行われ、一二三はバジャ・マルグベラシビリ(ジョージア)と対戦。「妹からパワーをもらった」という一二三は、開始2分すぎに大外刈りで技ありを奪い、そのポイントを死守して金メダルを決めた。
ふたりは共にパリ2024オリンピックの日本代表選手に内定しており、2大会連続の同日金メダル獲得に照準を合わせる。