挑戦者の物語 : 夢現のボブスレー大冒険

メダリストでなくでも、人々の心に刻まれるオリンピアンがいる。愛するボブスレーのために、そして母国・ポルトガルのために、冬のオリンピックの夢に情熱を注いだ挑戦者たちの、偶然が偶然を呼んだ大冒険を振り返る

1 執筆者 Virgílio Franceschi Neto
Calgary 1988 Winter Olympic Games: Portuguese bobsleigh team. Photo: Personal archive

年間を通じて温暖な気候のポルトガルにおいて、冬のオリンピックの歴史といえば、同国初の冬季デビューを果たしたオスロ1952にて、アルペンスキーに出場したドゥアルテ・エスピリト=サントを、まず思い浮かべる。しかし、それ以降、ポルトガルは冬季オリンピックから長く遠ざかる。

オスロ大会から36年後、カルガリー1988において、今度はボブスレーでポルトガルは2度目の冬季オリンピック出場を果たす。この大会のボブスレーでは、暖かい地域から冬のオリンピックへ出場するということで、ポルトガルだけでなく、ジャマイカやメキシコも大きな注目を浴びていた。

ハリウッド映画にもなったジャマイカチームではなく、また兄弟チームで有名なメキシコチームでもなく、イベリア半島南西部に位置するヨーロッパ小国のチームが、どうやってボブスレーに出会い、そしてどのように冬季オリンピック出場の夢を叶えたのか、彼らの挑戦の物語に迫る。

真冬の大冒険

アントニオ・レイスは、ポルトガル第二の都市・ポルトに程近い、ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアという街で生まれ、7歳の時に両親とともに、カナダへ移り住んだ。1950年代から70年代にかけて、多くのポルトガル人が、大西洋を渡ってカナダへ移住していたのだ。

レイスはスポーツが大好きで、特にアメリカンフットボールの才能に長けていた。学生時代は、ゲルフ大学の代表メンバーとなり、大学別対抗のトーナメントではチームを優勝に導いて、名誉あるバニエカップを手にした。これだけではなく、ボート選手としても活躍し、格式高いイングランドのヘンリー・ロイヤル・レガッタに出場して、優勝した経験もある。

そんなスポーツの才腕に溢れたレイスは、いつしか冬のオリンピック、特にスリリングなスピードが魅力のボブスレーに出場することを夢見ていた。

1985年、彼はカナダのボブスレー代表チームに連絡を試みるが、すでにカルガリー1988に向けたナショナルチームのためのプログラムが組み立てられており、メンバーの一員になることは叶わなかった。

しかし、レイスはそこで興味深いアドバイスを受ける。

ボブスレーのオリンピアンであり、カナダチームのコーチでもあったジョセフ・キルバーンとの会話のなかで、ボブスレーはお金のかかるスポーツで、世界の競技力にもばらつきがあることから、オリンピックスポーツとしての存続が危うい状況にあるというのだ。

「まさに、種を蒔いてもらいました」とレイス自身が振り返るように、キルバーンは彼に、選手が揃っているカナダではなく、選手層の薄い、レイスのルーツのポルトガル代表になって、オリンピックを目指すように提案したのだった。

真冬の大冒険が、はじまった。

偶然の連続

「僕たちのストーリーは、本当にバカげたように聞こえるよね。だって、あり得ないことが、本当にあり得たのだから。偶然が偶然を呼んで、オリンピックに辿り着くことができました」と、レイスは振り返る。

キルバーンの提案から程なくして、レイスはアメリカ・レークプラシッドでのトレーニングに招かれた。そして、またそこで、偶然のような出来事が起きる。「みんなが驚いていたよ」とレイスの説明も熱くなる。

彼のトレーニングの様子だけで、いきなりボブスレーのワールドカップへ招待されたのだ。しかし、ワールドカップは国際大会であり、ボブスレーはチーム競技でもあるので、参加するためには、ポルトガルチームとしての登録が必要であり、かつメンバーも探さなくてはならなかった。

「友人のホルヘ・マガラエスにすぐに連絡をとって、チームの一員になってもらったよ」

偶然と偶然が重なりながら、オリンピックの夢が、着々と前へ進み出していた。

願いよ、届け

チームの増員のため、レイスはさらに、アメリカンフットボールつながりで、ジョアン・ポパーダジョアン・ピリス、さらに100m走ランナーだったロジェリオ・ベルナルデスにも声をかけた。

「オリンピックに出るためのアイデアを伝えたら、みんなが快諾してくれたよ。しかも、彼らの家族も、支援金を募って協力してくれたんだ」

「夢のエネルギーが、どんどん大きくなっていくのを感じたよ」と、レイスは思い出す。

さらに、チームは、国の代表となるために、ポルトガルのオリンピック委員会に認定される必要があった。これが、なかなかの困難な道のりであったのだが、頓挫することはなかった。

はじめに、レイスはトロントのポルトガル領事館へ出向き、ポルトガルのボブスレーチームとしての登録手続きを踏んだ。その後、彼はリスボンへと渡り、オリンピック委員会からのチーム認定を受けることに成功した。さらに、その同じ日、イタリア・ミラノへと移動し、これらのチーム認定が合法の手続きであることの証明まで完了させたのだ。

こうして、様々な努力の結果、レイスが創ったボブスレーのポルトガルチームは、オリンピックに向けた国際大会へ出場する資格を得たのだ。

「全部がいい方向に進んだよ。みんなの願いが届いたんだ」

一睡もせず

カルガリー1988に出場するためには、1987年12月、オーストリア・インスブルックで行なわれた最終予選で、結果を残すほかに後がなかった。

ある夜、レイスとポパーダは、イタリア・コルティナダンペッツォで、彼らのために用意されているボブスレー本体を受け取るために、車でイタリア国境を目指していた。そり本体を受け取って、すぐさま来た道を戻り、一睡もせずに、翌朝には拠点へ到着して、ブレードを磨き、自分たちの大会登録番号を側面に貼り付けて、オリンピックの最後のチャンスに向けた最終調整に集中した。

功を奏した。

レイスのチームは、タイムをわずか0.5秒上回り、カルガリー1988の出場権を獲得したのだ。

この奇跡のような出来事を知って、ボブスレーのオリンピアンであり、同じ最終予選に出場していたモナコ公国アルベール2世大公は、ポルトガルチームのために資金サポートを提供した。こうして、レイスたちは、ボブスレー本体の借入金を、すぐに返済することができたのだ。

夢か現か

そして、夢に見たオリンピックの舞台。レイスたちは、オリンピック出場を現実にしたのだ。

レイスとポパーダのデュオは、2人乗り種目で38組中34位に終わった。また、レイス、ポパーダ、ピリス、ベルナルデスで出場した4人乗りは、最終25位となった。

結果はどうでもいい。

彼らは夢に向かって、情熱を燃やし、愛するポルトガルのために戦ったことは、紛れもない事実だ。

冬季オリンピックのボブスレーにおいて、ポルトガルを代表した選手は、レイスたちの他には、後にも先にもいない。

インタビューの最後、レイスはこう締め括った。

「もし僕たちの物語を映画にしたいという方がいたら、必ず台本に入れて欲しい台詞があります」

「こんなバカげたこと、現実に起こるはずない」

「今、自分で振り返っても、本当にあったことなのかと、夢現な感覚になるのですから」

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