五十嵐カノアが東京2020前に日記に綴ったこと

オリンピックを翌年に控えた2023年秋。シーズンを終えた五十嵐カノアがOlympics.comのインタビューに応え、銀メダルを獲得した東京2020オリンピック体験や子ども時代、サーフィンについて語った。インタビュー第1弾。

1 執筆者 Chiaki Nishimura
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(ISA / Pablo Franco)
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4年に1度のオリンピックを迎える2024年が幕を開けた。

2024年7月26日金曜日に予定されている開会式まで、およそ200日。課題を掲げて練習に励むアスリートにとってそれは長いようで一瞬で過ぎゆくものでもある。アスリートたちは一進一退、一喜一憂を繰り返しながら、パリ2024オリンピック最終予選や大会本番の「その日」を迎える。

東京2020銀メダリストのサーファー五十嵐カノアは東京オリンピック直前どんな気持ちを抱いていたのか。ヨーロッパでオフシーズンを過ごしていた2023年秋、五十嵐は貴重な時間を割いてスペイン・マドリードにあるOlympics.comのオフィスを訪れ、さまざまなトピックでざっくばらんに話をしてくれた。オリンピックイヤーの始まりに際し、その中から、五十嵐がオリンピックを通じて得たものを紹介したい。

みんなを幸せにできることが、オリンピックのすごさ

「たぶん14歳くらいだったかな、初めてのサーフィンがオリンピックスポーツになるっていうことを聞いたのは。そこから目標を作って、目標に向かって進んでいけた。メンタルの力が強かったなということが印象に残っています」

東京2020で初めてオリンピック競技として実施されたサーフィン競技。1997年に米カリフォルニアで日本人の両親のもとに生まれ、サーフィン少年として成長していた五十嵐カノアは、そのニュースに触れ大きな目標が突如として現れたのを実感した。

「子どものときからの目標は世界チャンピオンになることです。それは『6歳のカノア』の目標で、たぶん一生の目標。オリンピックに出るチャンスは絶対ないと思っていましたが、(サーフィンがオリンピック競技になったことで)いきなりチャンスが出てきて、新しい目標、すごくインパクトがある目標ができました」

プロサーフィンツアーを組織する「ワールドサーフリーグ(WSL)」が主催する世界最高峰の「チャンピオンシップツアー」に日本人として2016年に初参戦した五十嵐は、4年目を迎えた2019年に初優勝を飾ると、シーズン終了後には東京2020オリンピック出場枠を確保して、母国でオリンピックデビューを飾るサーフィン競技の日本代表選手に内定した。

それからの期間、五十嵐は多くの人からのサポートを肌で感じた。そして、日本のためにメダルを取りたいという思いが膨らんでいった。

「(家族だけでなく多くの人に)1年中サポートしてもらって、サーフィンを知らない人でも日本人だからサポートする。そういうファン(の存在や力)を感じて、本当にありがたい気持ちでいっぱいでした」

「普通のコンビニに行って、サーフィンのことを全然知らない人でも『オリンピック頑張ってください』と声をかけてもらい、そういうちょっとした声がすごくありがたかった」と、五十嵐は当時のことを振り返る。

「そのサポートをいいパフォーマンスにかえることで、メダルを取ってみんなを幸せにできることがオリンピックのすごさだと思います。それは本当にプレッシャーだけど、そのプレッシャーを力にして、そのプレッシャーを面白くする」

そうしたプロセスが自身にとってひとつの大きな学びになったと五十嵐は認める。

嬉しいけど何か怖い。だけど、楽しみ

しかし当然ながら、大会が近づくにつれて期待と不安そして興奮が複雑に絡み合っていた。

日頃から気になることをメモに残しているという五十嵐は、オリンピックイヤーとなる2024年を前に、東京2020直前に書いたことを改めて読み返し、大会前の気持ちを思い起こしていたという。

当時何を書いていたのかを尋ねてみると、それは普段どんな質問にでも迷いなく答える五十嵐からは少し意外なものだった。

「『プレッシャーやばい』とか、『集中しづらい』とか、『楽しみ』とか、ちょっとしたことを頭がおかしくなったみたいに細かく書いていました。ほかにも『嬉しいけど、何か怖いけど、楽しみだけど、やりたくないけど、やりたい』、そんな感じで。何かよくわからないけど(笑)、でも大体わかる」と、その混乱ぶりを振り返りながら、五十嵐は笑顔で話す。

それはおそらくオリンピックを目指す多くのアスリートたちが経験する高揚感や不安な気持ちそのものと言えるだろう。

そして迎えた東京オリンピック。釣ヶ崎海岸サーフィンビーチで2021年7月27日に行われた決勝で、五十嵐はオリンピック銀メダルに輝いた。

「おばあちゃんが泣いてくれた」

「(オリンピックのときの気持ちの浮き沈みは)本当にジェットコースターのようなもので、『絶頂』の部分は、純粋にオリンピック選手であり、メダリストであること。反対に『どん底』は金メダルを獲得できなかったこと。4年間、自分のすべてをかけてその瞬間に向かっていって、(決勝の)次の日、突然すべてが終わった」

「オリンピックまでの4年間、多くの人に支えられ、不安もある一方で、高い得点を叩き出す喜びもあって、とても大変だった。だけど、その大変さは価値のあるもので、あの感覚はオリンピックだけで得られるものだったと思います。できれば次の、そしてその次のオリンピックでも感じられたらいいなと思いますが、現在のところ、あのときの感情はとても特別なものです」

その特別な感情は、「家族の幸せ」という要素が加わって深みを帯びていく。

「オリンピンクメダルというのはとても特別なものです。今でも毎日のように感じています。それがもたらす影響や、その影響の重さも感じています」

「おばあちゃんにメダルを見せたら、おばあちゃんが泣いてくれた。オリンピックの力をそういうところで感じて、本当に特別だと思いました」

「日本の親族みんながサーフィンをよく知っているわけではありません。もちろん彼らは僕がサーフィンをしながら成長しているのを見てきてサーフィンに触れていますが、オリンピック選手になるとは思いもしなかった。そしてあるとき、僕がやっていることが『ちょっとした週末の趣味』ではないことを知りました。彼らが思っていたよりもっとすごいことだった。将来、子どもや孫たちにも僕の誇りとしてメダルを見せたいと思います」

そのメダルは、周囲や家族のサポートを受けて手にした価値のあるものだったと五十嵐は続ける。

「家族と一緒にメダル取っていたっていうのも、すごい印象に残っていて、トロフィー獲得や優勝といった良いモーメントはいっぱいあるけど、でも一番印象に残っているのは、『家族と一緒にオリンピックに行った』ということです」

「その気持ちはたぶん一生、どんなトロフィーを手にしたとしても一番印象に残ると思います」

2024年新しいチャプターのスタート

五十嵐カノアは2023年、サーフィン男子日本代表のパリ2024出場枠獲得に大きく貢献し、チャンピオンシップツアーでは前年の5位から10ランク落とした15位で終えた。数ヶ月のオフシーズンを経て2024年のツアーを1月末にスタートさせる。

「今年(2023年)は意外と難しかった年でした。来年のことを考えすぎて。来年の準備、2024年が大切だ大切だってそっちに集中しすぎて、今年のことに集中できなかった。それがもったいなかったなと思います」

「去年(2022年)に比べて今年の結果は良くなかった。それは難しいところだけど、アスリートの世界はアップ&ダウンがいっぱいある。でも、学んだことは来年の力になると思います。落ち込んでも、そこで学んで、それでうまくなれば何か意味があったことだと思うので、負けて落ち込むだけでなくて、じゃあどうしようって考える。毎日1%でも上手くなることが大切。今年感じた悔しい気持ちが来年のパフォーマンス、来年のいい成績につながると思うので、本当に今年は大切だったと思います」

五十嵐はかつて、自身の目標を携帯電話の待受画面に設定していた。では今は?

「東京大会以降、何度も変更しました。正直なところ、今は何もありません。重要な1年がやってくることはわかっているので、今はちゃんとリセットするようにしたい。難しいことだけど、東京オリンピックのことや、今年(2023年に)あったこと、すべてのことを忘れる。というもの、僕たちが集中できるのは、これから起こることだけ。どれだけ良くて、どれだけ悪かったとしても、過去にこだわるわけにはいかない。なので今、これからの数週間で、これまでの数年間の『チャプター(章)』を終わらせることで、新しいチャプターを始められる。オリンピックの出場枠を獲得することができ、(これから)重要な1年が始まる」

年が明けた今、その新たなチャプターが始まった。「もちろん(オリンピック)金メダルはとても重要。毎日毎日それが心の中にある」と語る五十嵐が、オリンピックイヤーに何を感じどんなメッセージを発信するのか。サーフィン日本代表「波乗りジャパン」を率いる五十嵐から目が離せない。

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