4年に1度の冬季オリンピックで特に注目を集めるフィギュアスケート。今年も世界各地で行われる大会において、選手たちが限界に挑戦し、最高の演技を披露している。
フィギュアスケートのシーズンをさらに堪能するため、Olympics.comでは2022年に行われた北京オリンピックをはじめ、これまでの冬季オリンピックで観衆を虜にしたパフォーマンスや、アスリートたちの戦いのドラマを改めて振り返ってみたい。
スイ&ハン組が母国で手にした金メダル、北京2022
北京2022オリンピックを前に、世界選手権のペア種目で2度の優勝を誇るスイ・ウェンジン&ハン・ツォン組への国民からの期待は大きく高まっていた。その証拠に北京大会でのフィギュアスケートの日程が調整され、ペアのフリースケーティング(FS)は北京大会の最終夜に行うという異例の対応がとられた。
ショートプログラム(SP)で世界最高得点を記録したスイ&ハン組は、FSでは大技の4回転ツイストリフト(オーバーヘッドスロー)をプログラムに組み込み、銀メダルのエフゲニア・タラソワ&ウラジーミル・モロゾフ組を抑えて(その差は0.63点。スイ&ハン組が239.88点、タラソワ&モロゾフ組が239.25点)で優勝。ふたりはスコアが表示されると歓喜の声を上げた。
中華人民共和国の選手がフィギュアスケートで初めて金メダルを獲得したのはバンクーバー2010のシェン・シュエ&ツァオ・ホンボー組で、スイ&ハン組は2組目のスケーターとなった。
ブライアン対決(ボイタノ対オーサー)カルガリー1988
ブライアン・ボイタノとブライアン・オーサーは、オーサーの母国カナダで開催される冬季オリンピックに向けて、世間の関心を集めるライバル関係を築いていた。カルガリー1988の前年に行われた1997年の世界選手権ではオーサーが優勝。その前年の世界選手権では、アメリカ合衆国のボイタノが世界の頂点に立っていた。
ガルガリー1988での対決は、SPを終えた時点でオーサーがわずかにリードしていたが、FSでは、ボイタノが3回転ジャンプ8つ(そのうち2つはトリプルアクセル)を含む、技術的に優れたプログラムを披露。最終的には、僅差でボイタノに軍配が上がった。ボイタノはその数週間後に行われた世界選手権で2度目の優勝を果たし、プロに転向した。
トービル&ディーンによる伝説のボレロ、サラエボ1984
「ブライアン対決」の4年前、英アイスダンサーのジェーン・トービルとクリストファー・ディーンは、モーリス・ラヴェルの「ボレロ」に合わせて鳥肌が立つようなパフォーマンスを披露。その様子は、約2,500万の英国人がテレビ放送で視聴したと言われている。
世界選手権を3度制したふたりは、この大会で最終滑走者として演技を行い、審査員全員から芸術点6.0点満点(旧採点法)を獲得し、当時の採点方式で史上最高の得点となった。
特筆すべき点として、トービルとディーンは17分のボレロを4分28秒に短縮して自ら振り付けを行った。ルール上、フリーダンスは最大で4分10秒とされているが、彼らは最初の18秒間は滑らず、膝をつけて体をゆらゆらと揺らす動きで観客をその妖艶な世界観に引き込んでいった。
羽生結弦オリンピック2連覇、平昌2018
日本の羽生結弦が達成した2連覇という快挙は、約60年ぶりにオリンピックのフィギュアスケートにもたらされたものだった。
ソチ2014オリンピックで、当時19歳だった羽生は日本男子選手として初めて優勝し、4年後の平昌2018でも、宇野昌磨や共にトレーニングに励んでいたハビエル・フェルナンデスを抑えて、金メダルを獲得。羽生は、1948年大会と1952年大会の男子シングルを制したリチャード・バトン(ディック・バトン)以来、初めてオリンピック2連覇を達成した男子シングルスケーターとなった。
カナダのパトリック・チャンが世界選手権で3連覇を達成し、世界王者としてソチオリンピックに臨んだ一方、羽生はさらに成長して平昌大会では優勝候補の筆頭に挙げられるようになり、足首の怪我を乗り越えて表彰台の頂点に立ったのだった。
新時代を切り開いたリチャード・バトン、オスロ1952
羽生が多様の4回転ジャンプを組み合わせて新たな時代を切り開いたように、アメリカ合衆国のディック・バトンの愛称で知られたリチャード・バトンは、数世代前に同様のことをやってのけた。技術レベルが大きく異なる時代だったが、バトンはダブルアクセル(サン・モリッツ1948冬季オリンピックのFS)とあらゆる種類のトリプルジャンプ(オスロ1952のFSでトリプルループ)を初めて成功させた。
バトンは時代の寵児として1948年から1952年までの世界選手権で5大会連続優勝。サン・モリッツ1948では18歳という若さながらオリンピック金メダルを獲得し、史上最年少の男子シングル金メダリストとなった。この記録は現在にも続いている。バトンはオスロ1952で2連覇を達成。その偉業は、羽生の登場(前述)まで66年間も達成されることはなかった。
カタリナ・ヴィットの「カルメン」 が歴史を刻む、カルガリー1988
オリンピックでの連覇といえば、女子では2人のスケーターがその偉業を達成している。最初の選手はソニア・ヘニーで、ノルウェー出身のヘニーは1928年から1936年にかけて3連覇を達成。これに続いたのが、1984年大会と1988年大会で優勝したカタリナ・ヴィットだった。
ドイツ出身のヴィットはサラエボ1984で前回大会の金メダリスト、ロザリン・サムナーズを抑えて優勝。4年後のカルガリー1988では、ヴィッド、そしてライバルであるデビ・トーマス(アメリカ合衆国)がFSの曲に「カルメン」を選び、「カルメン対決」と呼ばれたこの戦いを制して、ヴィッドは2連覇を飾った。
カルガリーでヴィッドは、最終的に3位となったトーマスだけでなく、FSでトップスコアを叩き出したエリザベス・マンリー(カナダ)を抑えて勝利を手繰り寄せた。
アリョーナ・サブチェンコ悲願の金メダル、平昌2018
ドイツ代表のペアスケーター、アリョーナ・サブチェンコにとって、平昌オリンピックは3度目(あるいは4度目!)の正直ではなかった。自身5回目のオリンピックとなった平昌2018年で、サブチェンコは遂に優勝。オリンピックデビューから16年、34歳での金メダルとなった。
サブチェンコはロビン・ゾルコーヴィと組んで2010年と2014年に銅メダルを獲得。平昌2018では、フランス代表からドイツ代表に転じたブルーノ・マソとパートナーを組んで出場した。
SPを終えた時点で、ふたりは首位のスイ&ハン組から6点差をつけられての4位発進となったが、FSでは演技終了と同時にサブチェンコがマソに向かって倒れ込むほど、すべてを尽くしたパフォーマンスで観客を魅了。結果は、世界最高得点となり、ふたりは逆転優勝を果たして悲願の金メダルを獲得した。
関連動画|サブチェンコが語るオリンピックの思い出
ヴァーチュ&モイアがカナダに捧げた金メダル、バンクーバー2010
バンクーバー2010オリンピック以前、カナダが最後にオリンピックの開催地となったのは、1988年のカルガリー大会だった。この大会では、アイスダンスでトレイシー・ウィルソンとロバート・マッコールがメダルを獲得。これ以来、カナダ勢はフィギュアスケート競技でのメダルから遠ざかっていた。
2006年の世界ジュニア選手権で優勝したテッサ・ヴァーチュとスコット・モイアは、バンクーバー大会までの4年間で、その実績を積み重ねていた。
彼らはフリーダンスでグスタフ・マーラーの交響曲第5番に乗せた演技を披露し、IJS採点システムで10.0点が8つという、これまでにない高得点をマークした。
当時20歳のヴァーチュと22歳のモイアは、オリンピック史上最年少のアイスダンス金メダリストとなり、1976年にこの種目がオリンピック種目に加わって以来、初出場で優勝した最初のチームとなった。
ふたりは2014年に銀メダルを獲得し、その後、少しの間だけ競技を離れると、再び復帰して平昌2018で金メダルを獲得した。
キム・ヨナが手にした大韓民国の歴史的な金メダル、バンクーバーク2010
ヴァーチュとモイアがアイスダンサーとして自国開催のオリンピックで初めて金メダルを獲得した数日後、女子シングルが行われ、大韓民国のフィギュアスケーターが初めて同競技でメダルを獲得して大会を締めくくった。
2009年の世界選手権からバンクーバーの表彰台まで、圧倒的な強さを発揮したキム・ヨナは、そのしなやかな演技によって金メダルを獲得。SP(78.50点)とFS(150.06点)の両方で世界記録を樹立すると、合計点数は228.56点に達し、史上最高得点記録も更新した。
大韓民国のフィギュアスケーターがオリンピックメダルを獲得したのはこれが初めてで、スピードスケートとショートトラック以外の競技で、初の冬季オリンピック金メダルとなった。
この大会で銀メダルに輝いたのが日本の浅田真央で、浅田はSPとFSでトリプルアクセルを3度成功させ、ギネス記録に認定された。
デビ・トーマス 黒人選手初の冬季オリンピック・メダル、カルガリー1988
ヴィットとともに「カルメン対決」を繰り広げたもうひとりのスケーター、デビ・トーマス(アメリカ合衆国)は、1986年の世界選手権で優勝し、カルガリー大会の舞台に立っていた。
前シーズンはケガに苦しんだトーマスだったが、カルガリーではSPで首位となり、FSでは冒頭のジャンプで失敗し、その後もミスが続いたものの、3位に食い込むことができ、冬季オリンピックでメダルを獲得した最初の黒人選手となった。
ネイサン・チェン 圧巻の金メダル、北京2022
2018年にオリンピック・デビューを果たしたアメリカ合衆国のネイサン・チェンは、デビュー戦で5位と苦戦したが、その後の4年間の国際試合で圧倒的な強さを発揮。世界選手権とグランプリファイナルで3連覇を果たし、国内では、リチャード・バトンが保持していた国内選手権6連覇に並ぶ優勝記録を樹立した。
平昌の悪夢を払拭したチェンは、北京2022の団体戦でアメリカ合衆国のメダル獲得に貢献し、男子シングルではSPで2位に5点以上の差をつけて首位発進。FSでは、鍵山優真と平昌オリンピック銀メダリストの宇野昌磨に22点もの大差をつけて勝利を飾った。